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「……この字(啓蟄)ってナンテ読ムノカ、わ、分かるかなァ?」
彼はその失敗を表情には出さなかった。
ツヤのいい頬がぐっと悔しげにこわばる。こらえるプロ根性。
だが、耳だけはボワッと湯気がたちそうなぐらいに真っ赤っ赤になった。
隠しきれない情けなさ。
鷲尾は心のシャッターを切った。鼻息を荒くさせながら、がっつり連写した。
一條さんにとっては無念のミスでも、鷲尾にとっては甘い甘いご褒美でしかない。
「正解は、啓蟄。二十四節気の一つで──」
ちょっぴり瞳を潤ませながらも、彼は健気に自分の使命をまっとうしている。
一條さん。ああ、一條さん。一條さん。
やましい心臓はでんぐり返りそうに踊る。祭りだ。大収穫祭り。
ぎゅって抱きしめて頭をよしよししてあげながら『大丈夫ですよ』と励ましてあげたかった。
(いっちじょおおおおさああああん!!!)
はらはらと涙を流す一條さんを自分が男らしく抱きしめる妄想をしただけで、脳内にたまらない快感がほとばしる。
しかし、絶頂の時間はそう長くは続かない。
満開のうっとりモードの鷲尾の頬にチクチクと冷たいトゲが刺さった。
音声担当の五十嵐ちゃんがコーラとラムネをいっぺんに口に入れたような膨れっ面で鷲尾を睨んでいる。
これがもし本番中でなければ両手に握ったガンマイクの付け根で脳天を衝かれていたかもしれない。
いまは決して物音を立てられない彼女は、代わりに指を立る。中指でファッ──ではなくて人さし指や親指も一緒に宙をくるくるとダンスする。
(やべッ! 本番中だった!!)
彼女は『ジ!カ!ン!』と訴えていた。緊急連絡のための指文字である。
残りの放送時間はあと20秒を切っている。
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