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「先、行っていっすよ」
佐和ヶ丘の学生が絞り出すように言う。いまいちテンションの読めない低い声。長い前髪の隙間から、見えそうで見えない瞳を必死で探る。
一砂は、この学生がカーストの上位にいるであろう人間だったことを思い出し、内心でイラついているのではと焦った。
「ええと、たぶんそっちの方が歩くの速いし。ほんと大丈夫です」
学生はきょとんとした様子で頭をかく。
「でもそっちは、前に人がいたら追い抜かしたくなるタイプの人っすよね?俺、そういう競争心とかないんで」
謎のセリフを吐かれ、一砂はリアクションに困った。
・・・こいつ、天然か?それとも俺が、たった数分の間にとんでもないイメージを植え付けてしまったのか
「昨日はマジでただ急いでいただけなんで。あのたぶん、そういうタイプの人間ってきっと稀っていうか、いやもはやゼロ?っていうか。まあゼロではないのか?いやどうなんだ・・・」
しどろもどろになりながら、学生のフォローをしつつ訂正を図る。が、しゃべればしゃべるほど墓穴を掘っている気がした。
唸りながらもはや何を言いたいかもわからなくなった一砂に、学生はだんだんと肩を震わし、やがて腹を抱えて笑いだした。
ますます状況がカオスになっている。
「や・・・まじすみませ・・・」
学生は笑いがおさまると、申し訳なさそうに片手で謝罪のポーズをつくった。
「そうだったんすね。いや、すげえ大股で勢いよく抜かしてったから、昨日はちょっとビビって。・・・でも俺ほんと、ぜんぜん急いでないんで先行ってください」
冷たそうな声が、少しだけ柔らかくなった。見た目とは裏腹に、案外いいやつかもしれない。
変なイメージを持っていたことを心の中で謝った。
「実は俺も急いでないんですよね。どれくらい急いでないかっていうと、ほんとマジで急いでなくて」
こういう時、自分の語彙力のなさを呪いたくなる。けれど学生は気にした風もなく、片頬をクールに引き上げた。
「なら、駅まで一緒に行きます?」
ポケットに手を突っ込んだまま、薄っぺらいカバンを肩にかけて。
いつもだったらそんな誘いなんて断るのに、人を寄せ付けないようなニヒルな雰囲気を持ちながら、人なつっこいセリフを吐くこの学生に、なぜだか強く惹きつけられた。
「・・・そうですね」
二人の間に、春の風が吹き抜ける。暖かいのに、力強く背中を押すような。
学生の前髪がふわりと持ち上がる。そこで、一砂は見惚れてしまった。
他人になんて興味のなさそうな冷めた表情。なのに、強く芯の通った黒い瞳の奥は、興味深げに輝いている。
やや吊り上がった目元はすっと大きく横にのび、まるで人の知性を宿した豹のように、危うさと気高さが同居しているような、そんな印象を持った。
・・・すっげ、モテそう
これが、俺と赤西渚の出会いだった。
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