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これってサービス精神ですか?
「うーん…そろそろ帰ろうかな」
ようやく仕事が一段落ついて…。
安斎暢子は、デスクチェアに座ったまま思いきり伸びをした。
スカートが一気に膝上20センチくらいまくれあがり、慌てて押さえたが、周りには誰もいないのでセーフ。
しかも、灯りは暢子が使うパソコンの液晶画面のみ、という薄暗がりの環境なので、これまたセーフ。
残業NGと言われる昨今だが、仕事が終わらないことにはそんなことも言っていられない。
気づけば、腕時計は21時を差していた。
どうりでお腹も空くはずだ。
窓の外を眺めると、隣のビルに煌々と灯りがついている階があって、バタバタと動き回る人たちがいる。仕事の佳境を迎えているように見えた。
暢子の場合は、すでに退勤のタイムカードを押しているので、目立つ残業はできない。
いわゆるサビ残で、世間的にはいけないことをしている引け目があるのと、本人自身も節約を心がけている節があり、定時後のオフィスは基本的に電灯をつけないようにしている。
…と。カツカツとヒールの鳴る音が聞こえ、暢子のいる部屋のドアが開いた。
警備員のおじさんだと思っていたため、暢子はドアを見ることもせず、パソコンを片付けながら「すみませんーもう出ますー」と大きな声で言う。
何の返答もないので、ドアの方向を見ると、スーツ姿の長身の男が1人立っていた。
(あれ?)
と思うのと同時に、パソコンの電源が落ち、あたりが真っ暗になる。
(え、誰だろう?? あんな人、社内にいたっけ?)
男はつかつかと暢子の方にやってくる。
逃げ出したいが、足がすくんで動けない。
「あ、あ、えっと……」
声が震える。
「出口どこですか?」
明瞭な声で、男が言った。
「え?」
「出口…外の表玄関がしまってるから出られなくて…」
暗いなかで顔がよく見えないため、確かではないが、少し赤面しているのでは?と思うような照れの混じった声だった。
一言一言がハキハキしていて、高くもなく低くもない落ち着いた声で、暢子はなんとなく(仕事ができそうな人…)と感じた。
「あ、表玄関の横にトイレがあるスペースがあるんですけど、そこを直進すると従業員通用口があります…」
「……」
男は少し考えこんでいる様子だった。
「も、もし良かったら、私も帰るので一緒に」
「いや、いいです」
男はきびすを返してドアを出ようとする。
(ガーン。余計なこと言ったかな)と落ち込みそうになった暢子に、男は「あっ」といってこちらを振りかえって
「ありがとうございました」と丁寧に一礼をして出ていった。
暢子はホッとひと安心して、ほんのり温かい気持ちになる。
気まずくなるだろうから、少し時間を遅らせてから暢子も通用口を使って外に出た。
男の姿はすでになかった。
顔くらいはちょっと見てみたかったかも、と少し残念に思った。
外はコートを羽織るくらいの気温でまだ寒いが、そこかしこに春の気配がする。
暢子は、春になりかけの、今日みたいな夜が好きだった。
街行く人たちも、どこか浮かれて見える。
とりあえず、今日は奮発してお肉でも焼こうかな、と。暢子は駅に向かって元気よく歩いていった。
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