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男は女の手を、そっ…と触った。
「真実子さん…もう諦めたほうがいい。
それよりも…俺と…」
真実子は傍らの男、伊田の手をピシャリと払いのける。
「誰の子なの?」
「え?」
「元カレの子かもしれないわよね! だって調べてみたらすでに既婚者だったもの。頭の悪そうなだらしない男が、職場まで会いに来てたわ! ホントふしだらな女! 大嫌い」
爪をギリギリと噛んで、弥生に向かって憎しみを放つ。
「でも松山の夜……三橋は懇親会を欠席して、どこかに消えた。奴の子どもかもしれな」
バンッ!
カウンター席が揺れる。
真実子がこぶしで力一杯叩いたせいだった。
右手の小指が赤くなっている。
「…だったらねぇ、調べなさいよ!」
「ああ…真実子さんの美しい手が」
伊田のおためごかしも効かず。
キッとにらみつけながら真実子が言う。
「そのためにお金払ってるでしょう。足りないの? だったら追加で払うわよ!」
財布から万札を何枚も出して、伊田の顔にぶつける。
「ま、真実子さん、落ち着いて!」
「……やっと手に入れて大事にしてたのに……。こんなことなら、やっぱりうちの会社の社長にしてあげれば良かった! ミツハシなんて小さい会社より、うちのスエナガ製菓の方が何倍もすごいのに。孝太郎さんたら断るんだもの」
「……」
「孝太郎さんが欧米の買い付けから帰ってくるまでに、決着つけなきゃ」
「欧米…以前行かれたところですか?」
真実子は暗い表情で。
「……この前は慰安旅行を兼ねていたのに、孝太郎さんは仕事ばっかり! 一緒に行ったって…放っておかれるだけだもの。夜だって、別々の部屋だし。何を考えてるのかしら。なんで私に黙って…海外行ってしまったの。もう反対なんかしないのに。反対したのだって、孝太郎さんに悪い虫がつかないように言ってるだけで…」
1人でとめどなく話し続ける。
興味本位で近づいた、三橋の妻の真実子。
清純で少女のような可憐な姿とは裏腹に、中には、どす黒いマグマを抱えている。
(これじゃ三橋も…離れたくなるな)
伊田はほんの少し、三橋に同情する…が。
「どうですか?真実子さん。これから部屋で作戦会議を」
「ダメよ。まだご褒美はあげないわ」
自分のことをご褒美と言ってのける傲慢な態度に…惹かれてもいる。
「前西弥生を潰すまで?」
「そうよ……孝太郎さんの子どもだったら、絶対に絶対に産ませたくない。でも安心して。そのときは私自ら手を下すから」
「…犯罪者になってしまいますよ。このまま朝原にやらせましょう」
「……え」
伊田は悪い顔をする。
「もともとは私の義弟でね。短期間だったが、妹と結婚してたんですよ。それをアイツ…裏切るような真似して、クソが! 妹は今、夏目という男と再婚してまあまあ上手くやっていますが」
「……いくらなの?」
「……まあアイツ次第ですかね。借金抱えて首が回らないみたいだから」
「…考えとく。じゃあ行くわ」
伊田は真実子の手首をつかむ。
「キスくらいはいいでしょう?」
真実子は呆れたようにため息をつくと、
唇に軽くキスをする。
「俺以外に何人飼ってます?」
「なんのはなし?」
真実子の声色が変わる。
「あ、いや。なんでも……」
真実子はきびすを返して去っていった。
昔から気にいらない相手をおとしいれるために手段を選ばない女性だったと聞く。
三橋を手に入れるまでに、何人犠牲にし、何人の男を操ってきたのか。
スエナガ製菓のお嬢様、真実子。
(前西弥生…お前も完全にロックオンだよ)
真実子とそう変わらない性質の伊田は、この状況が楽しくて仕方がない。
(さあ、「松山の夜」を知る奴を見つけださなきゃ)
伊田はほくそえんだ。
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