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三橋孝太郎が、滞在先のフランスから日本に戻ってきたのは先月のことだった。
約4ヵ月の長丁場の提携交渉…心身の疲れをとるため、関東近郊の温泉で少し休暇をとってきたところだ。
社長になってすぐ、ミツハシを今よりグローバルな会社にするべく、海外支店を立ち上げることに奔走してきた。そのかいもあって来年には初のパリ支店ができることになった。
新婚旅行を兼ねた欧米旅行で、ここぞというメーカーに巡り合えたのが好機となり、買い付けや交渉自体はこれでも上手くいった方だと思う。
妻である真実子には何も告げずに、日本を離れた。長い間家を空けることに、賛同を得られないと思ったからだ。甘やかされてきたお嬢様は自分の思い通りにならないと癇癪を起こす。なだめるのに正直疲れはてていたし、何より仕事に集中したかった。
一緒に連れていきたいと思うのは…ただ1人…。
憎まれ口を叩きつつも、なんやかんや世話してくれるあの女性。そして、いつも思いもよらない方法で自分を翻弄する。
松山の夜…彼女を抱くことができて良かった。
あの夜の記憶が、仕事のモチベーションになっている。
自分の父親が真実子のために用意した高級マンションに、着いた。
外観を見るだけで、気持ちがどんよりするが、今日はある目的のために帰ってきた。
久しぶりに帰ってくると、盛大な料理が準備されていた。
いつもの通り、出来合いのオードブルが多々。
いや…中には不恰好なグラタンもある…。
「おかえりなさーい」
真実子が、とんちんかんな格好で出迎えてくれた。
(これは…何か盛られてるな…)
直感が働く。
「食べて食べて♪ グラタン張り切って作ったのよ」
「その前に話があるんだ」
「いや、その前に乾杯しましょ。孝太郎さんお疲れ様ーってしたいわ。ワインあるの!50年ものよ。実家から黙って持ち出してきちゃった」
ウフフ…と笑う姿は、可憐な花のよう。
毒が隠されているとしらずに、無知な虫たちが近づき、そして……。
ワイングラスにとぽとぽと注がれるワイン。
大好きな赤だ。
フランスでもさんざん呑んできたが。
「はい、カンパーイ!」
グラスを重ね合わせ、
真実子は一気に飲み干す。
三橋はグラスを片手に持ったまま。
真実子はちらっと見ながら、
「あー美味しい。ねぇ、孝太郎さん、呑まないの?」
首をかしげた。
「……」
「なんで? 孝太郎さん。呑んでほしいのに」
「睡眠薬?」
「へ?」
「あのときみたいに、睡眠薬で俺を眠らせて既成事実を作って、婚姻届にサインさせたように。…今回は何をたくらんでるの?」
「な、なにそれ。ひどいわ……婚姻届だって、2人で書いたじゃない。まるで私に無理矢理書かされたみたいに言うのね」
「……」
「離婚しないわよ、絶対」
ため息をついて、三橋が立ち上がる。
「どこ行くの?」
真実子が走り寄って、後ろから抱きつく。
胸をギュッと押し付けた。
「もう黙ってどこにも行かないで。寂しかったのよ……」
三橋の背中に、顔をつけてさめざめと涙を流す。
「赤ちゃんが欲しい…孝太郎さんの赤ちゃんが」
三橋はサッと真実子から離れる。
そして、持って帰ってきたトランクの中に、荷物を積め始めた。
「しばらく、会社近くのホテルに泊まる。また話し合いの場をもうけよう」
「嘘つき! どうせ愛媛にあの女に会いに行くんでしょ?」
「……」
「この際だからいうけど、あの女ね、妊娠してるのよ。兼松勇二って元カレとの子どもよ。調べたから間違いないわ」
三橋は驚いて、目を見開く。
それを見て、真実子は満足そうに笑った。
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