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コンコンコン…とノックの後、
「弓子です」と声がした。
ベッドに寝そべっていた弥生は、のっそりと起き上がる。
「…どうぞ入って下さい。……いつもすみません」
「いいってぇ、好きでやっとるんだから」
生活用品を山ほど抱えて、長田所長の奥さんの弓子が病室に入ってきた。
「赤ちゃんの様子は、どう?」
「まだまだ…ですね。予定日過ぎたのに出てくる気配はないです」
「ま、そんなもんよ。出てきたいときに出てくるんでしょ。大福でも食べようか」
看護婦の資格を持ち、3児の母親でもある弓子は、弥生の良い話し相手になってくれていた。
(1人だったら…不安に押し潰されるところだったわ。弓子さんって素敵。…年をとったら私もこんな風に、おおらかでサバサバした女性になりたいわ)
弥生は大福を食べながら、思った。
現在…臨月に入った弥生を守るため、「長田作戦」発動中である。
…話は数ヶ月前にさかのぼる。
妊娠のこと、相手が三橋であることを弥生から聞いた長田は、涙を拭きながら「まずいな…」とポツリ言った。
「前ちゃん狙われるかもな。三橋社長の子どもを妊娠してるってわかったら、三橋家の財産や地位を狙ってる輩に命狙われるかもわからんよ」
「またまたそんなぁ…脅かさないで下さいよ」
いつもにも増して真剣な表情をする長田に、
弥生も思わず「本当に?」と聞く。
すると「うん」と力強く頷き返されたのだった。
そのため弥生が雲隠れできるよう、弓子の知り合いのいる病院に事前に話をつけていた。
そして先日…。朝原の一件があり、本格的にお世話になることになった。
本当は何事もなく、仕事もギリギリまでこなし、通っていた産婦人科で出産できれば一番良かったのだが、結局「長田計画」の通りになってしまった。病欠も予定より1ヶ月早く取得するはめになった。
弓子が大福を食べながら、カバンから
「あ、それとね。預かったよ」と言って、手紙を出した。
「華ちゃんからだ。早く会いたいな」
「ほうよー。華ベェも会いたくてたまらんよー言うとったわ。相思相愛やね」
「アハハ……」
華絵と長田は朝原に尾行される可能性がある、ということで、弥生の病院には行けない決まりになっていた。
あくまで弥生は雲隠れしている状態なのだ。
憎っくき朝原、そして伊田と真実子のせいで、すべてが狂ってしまった。
(退院したら覚えてろよ)
と、弥生はひとりごちた。
弥生はさっそく手紙を開けて読む。
そして顔がみるみるうちに翳っていく。
「どうした?」
弥生はため息をつく。
「母が私に…会いたいと言って、会社に電話してきたそうです。
はあ……今さら言われても……1回勘当されましたしね」
「水に流したら? 手伝いの手はたくさんあったほうがいいよ」
「…そんなもんですかね」
「ほうよ、できたらパパさんにも来てもらえたらいいんやけどな」
「……なじられるかも。勝手に産むな!とか言って」
「三橋さん、そんなタイプじゃないでしょ」
「…と思いますがね。もし言われたらタネ植え付けたのお前だろー!って私からなじってやろうかしら」
「いいね、それ」
カカカと笑い、弓子さんは洗濯物を抱えて病室から出ていった。
弥生はお腹をさする。
「健太郎……もしかして産まれてからを心配してるの? だからなかなか出てこないの? 私1人でも大丈夫なのよ。だから早く出ておいで」
お腹のなかの健太郎は、ウンともスンとも…まったく反応がなかった。
弥生は「ああ、そうですか。わかりましたよ。私からお母さんに連絡とれっていうこと? そしたら出てくるってわけね」と、なかばヤケクソ気味に言った。
そのとたん、(そうだよ)と言わんばかりに、お腹の中からドンドンと蹴りあげる。
「…コイツ……!」
戻ってきた弓子に、弥生が言う。
「弓子さん、悪いんですけど、テレフォンカード借りられませんか? 敷地外にある公衆電話から実家に電話します」
「あらぁ、さっそく心境の変化?」
「ええ、まあ……」
ヨタヨタと起き上がり、弥生は公衆電話に向かう。
「待って! 私も行くわ。それと念のため変装よ!」
弓子は持ってきた生活用品の中から、ストールを出して弥生に巻き付ける。そしてサングラスを手渡した。
電話口で弥生の母は喜び、そして明日には愛媛に向かうと…約束してくれた。
(お母さんも喜んでくれたし。まあこれで良かったのか…)
そしてその日の夜、弥生は破水した。
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