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月1回の逢瀬は、銀座にあるバーだ。
会員制のためリークされにくいし、マスターも事情を知る三橋の古くからの友人なので安心だ。
ここで交わされる話は、どれもこれも社外秘(トップシークレット)な内容なのだが、一度たりとも外に漏れていないことが、マスターの口の固さを証明している。
「弥生!」
店内に入ると、先にカウンターに座っていた三橋が手を上げた。
傍らには女がいて、弥生を値踏みするように睨み付けた。
(やれやれ…またか)
弥生が遅く来ると、大抵ナンパされている光景を見ることになる。
このバーに来るのはたいてい社会的地位のあるリッチな人たちなので、男漁りに来る女も多い。
50を過ぎてもなおダンディーさに磨きをかけて、いわゆるイケオジな三橋は、よく女に声をかけられている。
女が舌打ちして、去っていく。
(フン!……チッ!)
こっちも心の中で舌打ちよ。
当初は嫉妬したりして「お邪魔だったかしら~?」と嫌みをぶつけてみたり、わざと不機嫌になってみたりしたが、今はそんな気にならないほど達観してしまった。
「遅かったね」
「古橋のボケ野郎がまた計算間違いしたのよ。一度でいいから、あいつしめてやりたい」
「ハハハ…」
三橋が快活な笑い声をあげる。
おおらかな三橋と話すると、狭小な自分に気づかされる。
笑って受けとめてくれる存在がいる…
私が定年まで…働くことができた理由の一つかもしれない。
「来月はついに、定年退職か」
「そうね…こうして仕事のあとに会う機会も無くなるわね」
「いや…無くならない。待ち合わせることはできるだろう。なにも平日夜じゃなくたって」
「…そのことなんだけど。物理的に無理になりそうなのよ」
「……」
「まあ……ずっと考えてたんだけど、私……」
「……場所移そうか……」
「いや、いいわ。マスターにもお別れしたいし」
「…にも?」
「私、愛媛に移住しようと思ってるから」
「……は?」
「理由は…長田さんが足悪くしてしまって、介護する弓子さんに付き添ってあげたいの。あの二人には…恩義があるから。健太郎も自立したことだし。両親ももういないしね。よく考えるともう東京にいる理由がないのよ」
「……」
「孝太郎さんと長い間恋人でいられたのは本当に幸せだったわ。ありがとう。運良く婚姻関係は結んでないから、もうこのまま…お別れしましょう」
傍らを見ると、三橋が頭を抱えている。
「まさか今日…そんなこと言われるとは…」
「……ごめんなさい。でもずっと考えてたのよ」
「俺のことは…考えてくれなかった?」
「もちろん考えたわよ。でも…あなたは……」
「……」
「私じゃなくても、一緒に生きていける人がこの先も出てきそうだと……思ったから」
ちょっと目を離すだけで、三橋に言い寄る女性はたくさんいる。
よりどりみどりで、何も私じゃなくても…という気持ちは常に弥生の中にあった。
私に気を使ってくれて、健太郎しか子どもを持てなかったこと…本当にもったいないことをしてしまった。
私に会ったことで、女性運や家庭運を下げてしまったのでは…とずっと考えてきた。
三橋家に認められなかった私ではなく、上品で質の良い奥様と、もっと健やかで普通の家庭を築けたかもしれないのに。
今からでも遅くないから、そうしてほしい。
と、弥生はゆっくりゆっくり話をした。
三橋はしばらく黙ると…。
「……ずいぶん、甘く見られたものだな…」とため息をつく。
三橋にしては珍しく、本気で怒っているような口調だった。
(…どう言ったって、引き下がらないわよ。
これからの孝太郎さんの幸せがかかっているんだから)
弥生も意地を張る。
「やっぱり、場所移そう。マスター勘定!」
「あ、マスター……私、今日でね」
「また2人でくるから」
「ちょっ、待ってよ!」
三橋が弥生の腕をつかむ。
「いたい!」
三橋はハッと気づくと、弥生の指に自分の指をからめて恋人つなぎをする。
「…こんな……中年のおばさんと。ちょっとやめてよ。恥ずかしいじゃない」
聴こえないふりをして、三橋はずんずんと歩いていく。
(こういうところが…年下なのよね)
引っ張られながら、三橋の後ろ姿を見つめる。白髪が少し見え隠れする。
お互い歳をとった…。
だけど私は彼よりも年上で、きっと早く逝ってしまう。
あなたを最期までみてくれるような若い女性を…見つけなさいよ。
弥生はさっき言いそびれた言葉を、そっと心の中でつぶやく…。
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