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途中でタクシーを拾い、
三橋が暮らす豊洲の高層マンションへ向かう。
「ちょっと…まずいんじゃないの。週刊誌に写真撮られたりでもしたら……」
と、弥生は気が気でない。
ただでさえイケメン独身会長の恋バナは、全社員や取引先、その他大勢が興味・関心を抱いている。
突如現れた実の息子、三橋健太郎
の母親は誰なのか?をめぐって「賭け」までされているという…。
ちなみに、伊田はかつて「三橋孝太郎会長は前西弥生と恋人同士だった」などと噂を流したことがあったが、
「ぷっ!まさか!」と一笑されて、噂は広まらなかった…らしい。
確かアメリカ行く前の、榎本龍大も…そんな反応だった。
失礼な話だが、それほど我々は結びつかない相手なのだ。
下町の商店街で育ってきた弥生にしてみたら、豊洲という洗練された場所は、同じ東京でも…気後れしてしまう。
やっぱり私たちはどうしたって似つかわしくないのよ…。
それでも、最後の逢瀬だからと気合いを入れて、三橋とタクシーを一緒に降りた。
わざと腰をまげて老女の真似をする。
もし写真を撮られても、三橋が「母親だ」とか「腰を痛めた人を看病した」と言い訳ができるように…。
当の本人はまったく気にしていないようだが。
夜景が一望できる三橋の部屋に通される。
過去に二度ほど来たことがあるが、毎回来るたびに惚れ惚れとしてしまう。
部屋を見渡して…女性の影はないように思えた。別れを切り出したくせに、ホッとしてしまうのはなんなのか。
「じゃあ、ゆっくり話しようか」
ソファーに座ると、三橋はビジネスライクに切り出した。
ローテーブルには、マッカランが用意されている。
「ゆっくりも何も…さっきの話が全てなのよ。あなたには…ふさわしい相手と幸せになってほしいの、以上!」
「次は俺のターンでいい?」
「…いいわよ」
「嫌だね」
即答だった。
「……」
「あなたが俺の元から去ろうとしたって、追いかけていくよ」
「……愛媛まで来るっていうの?」
「もちろん行くさ。月1、いや2でも行ける…」
「呆れた…。仕事はどうするのよ」
「健太郎がいる」
「まだ青二才じゃない。伊田に変なことされないよう見張っていてよ」
「アイツはなかなかしっかりしてるから大丈夫だよ」
「…そう」
「俺たちの子どもだから」
「…」
「俺は、子どもは健太郎だけでいいと思ったし、妻にする人も1人でいいと思ってる」
「……」
三橋はサイドテーブルから小さい箱を取り出して、
「結婚しよう」
そう言って、指輪を見せた。
「……」
弥生は絶句する。
(いつのまに…。私を家に連れてきたがっていたのも…指輪を取りにきたからなの?)
「会社では前西でいたいというあなたの想いを尊重して、ここまで我慢してきた。ようやく…と思った矢先に別れたい…って言われても、俺は絶対…納得しない」
「……無理よ。今さら一緒に暮らすなんて」
「しばらくは別居だろ。あなたは愛媛で、自分は東京だ」
「…無理よ、絶対無理! お断りします!」
立ち上がりかけた弥生の腕をつかむ。
「いつも俺を支えてくれた。この何十年、あなたがそばにいてくれたから俺は頑張れた。弥生なしじゃ俺は…やっていけない」
振り返ると、三橋が細かく肩を震わせている。
「普通の夫婦ではなかったかもしれないけれど、あなたが俺の前に秘書として現れてから…人生が輝きはじめたんだ」
「……そんな」
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