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「なにその、鳩が豆鉄砲をクラったような顔は」
弥生は早口で言い放つと、裏にあるキャビネットの方へ向かった。
ソールが柔らかいゴムのナースサンダルを履いているため、ほとんど足音がしない。これじゃあ、さっきも全然音が聞こえなかったはずだ。
(抜き打ちで、経費入出金の調査するっていう噂もあながち嘘ではないかも…)
弥生には何かとスパイ疑惑が持ち上がっている。
…昨日の男性の靴音とは全然違っていた。
(あの人は、革靴だったのかしら…)
ぼんやり、と思い浮かべていると。
「先月に代品交換して送った荷物の伝票、まだ保管してる?」
弥生の声が、降ってきた。
「あ、3ヶ月保管だからまだあると思います。探しましょうか?」
「……」
黒ぶちメガネの奥から、暢子を射抜くように見つめる。
ボブの髪型はまるでカツラのように一切乱れがない。何年か前に廃止になったという制服をいまだに着続けている…少し変わった人だ。
ミツハシ経理課では最古参で、困ったときの前西さん。生き字引とまで呼ばれている。
「……リトガーのときも、雑用ばっかりしてたの?」
「え?」
両腕を組んだまま、暢子を睨む弥生。
少し小柄でやせているので、背格好からすると中学生女子にも見えるが…威圧感はすごい。
「お茶汲みしたり、コピーとったり、ゴミ捨てしたり…つまらない雑用じゃない。あなたしかやっていないように見えるのだけど」
否定されているのだろうか。
でも、はじめてだった。
暢子のことに言及してくれた人は。
2年間の間、誰にも何も言われなかった身としては喜びの方が勝った。
「確かに今は、私がほとんどやってますが…。雑用といえども仕事ですので。誰かがやらないと不便ですし…助かった、と思ってもらえると私も嬉しいです」
「……ふぅん。変わった人ね。営業の森山なんかは、あなたのことえらく褒めてたけど」
胸がツキンと痛む。
え、森山くんが私のこと?褒めてるって?
「そんなあからさまに嬉しそうな顔しないでよ」
お局様は、ここにきてはじめてニヤリと笑みを浮かべた。
「ふぅん。そうなのねぇ。…で?伝票は?」
「あっ」
キャビネットの鍵をもっていく。
2人で探すと、3分もかからないうちに伝票の控えが出てきた。
「はい、ありがと」
伝票に目を向けたまま、弥生は部屋から出ていった。
仕事モードに入ったんだな。
暢子もパソコンの前に座り、データ入力を再開し始めた。
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