1「カンザキ・サリイ」

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1「カンザキ・サリイ」

「お嬢ちゃん? 今さらだけれど、あそこに――『なもなき国』に、いったいなにをしに行くのかな?」  白髪頭の温厚そうな運転手さんが、運転席からルームミラーをちょいと見上げてそう言った。 「わわわ、私に訊いてますかっ?」  べつに寝ていたわけではないのだが、突然の質問に私はびくう! と身体を飛び跳ねさせてそう訊ね返す。 「もちろんだよ、お客さん。だってお嬢ちゃんしか乗ってないじゃないか」 「そそ、そうでした!」  走行中のタクシーの座席に、いつの間にか他のお客さんが乗り込んでいたら、それはもうホラーでしかない。……乗ってないよね? 一応念のため、私は隣を確認する。よし、私一人だ。 「もっ、もちろん、ムーンたちに会いに行くんです!」  ちょうどひと月前に行われた面接試験のときみたいに、できるだけハッキリとした声で私は答える。 「でもあの国は確か、今じゃとても厳しい試験に受からないと、入国の許可が下りないと聞くよ」 「だだ、大丈夫です! 先日その『厳しい試験』に合格したのです! したのです、……ので!」  よしよし、ちょっと変な言い方になりそうだったけど、上手くカバーできたぞ。  ……もっとも、本当に厳しいのは、筆記試験ではなくて、適性検査のほうなんだけど。なもなき国に住む彼ら――「ムーン」たちが作成した適性検査は、まるで「当たり」に絶対に行きつかないあみだくじのように不可解で、そして理不尽なものだった。  たとえばこんな設問があった。 『ふたりをいかすために ひとりをころすほうだ』  その設問の下には、ご丁寧にもトロッコに乗った丸い体のムーンが描かれていた。「れっつごー」と言わんばかりに、無邪気に手を挙げている。 8a35e70a-2ceb-4b91-8a3f-e36df1af572a 「トロッコ問題」だろうか。受験者には、『あてはまる』『どちらかといえばあてはまる』『どちらかといえばあてはまらない』『あてはまらない』という四つの選択肢が与えられる。 『じぶんがたすかるためには たにんをころすほうだ』  こちらは「カルネアデスの板」だろうか。もちろんその設問の下には、海で板切れにしがみつくムーンが描かれていた。 7f080548-b8d5-4ca6-b6eb-3ce0aeff21dd  ちなみに、ムーンは基本的に泳げない。という知識のほうは、「筆記試験」で問われる。まあ、なもなき国に入ろうとする受験者なら、誰もが知っているであろう知識なのだけれど……。 『おいもより おいしいたべものはないとおもっている』  物騒な設問ばかりというわけではない。だからこそ余計に「答え」が分からない。 「ああ、そうなんだね。その若さで。大したもんだ」 「い、いえ!」  ……おそらく、若さは全く関係ない。先ほど挙げたような設問にどう答えれば「なもなき国」に入る人間として適当なのか、見当もつかない。そしてその「どう答えればよいか見当もつかない設問」が百八問もあり、その百八の設問に対する回答が合否に関するほとんどのウェートを占めている(と言われている)。  というか、褒められたので一瞬照れてしまったけれど、考えてみればこの運転手さん、意外とちゃっかりしているのでは。「なもなき国になにをしに行くのか」――なんて、そんな質問は、私が乗車し目的地を告げたときにするべきでは。なのに、フロントガラスの向こうに入国管理所が見えた今頃になって言うだなんて。  私が無知な観光希望者だったとしたら、往復分の運賃を無駄に支払うだけとなってしまう。  世間は怖いなぁ。世知辛いなぁ。  やっぱり万年引きこもりの私に、人間世界で生きていくすべなどないのだ。  でもこれから行く「なもなき国」は違う。人間なんかいやしないのだ。  ……いや、正確には一人だけ、いるらしい……。  私がその人物のことを思い浮かべているということはまさか分からないはずだけれど、運転手さんは偶然にも私の心を読んだみたいな話の展開の仕方をする。 「……でもあの国にも、きみくらいの年の女の子が一人、暮らしているって聞いたことがあるよ。確かあの有名な研究者夫妻の娘さんで――」 「ナルセ・ミツキ、……さん」 「えっ?」 「『問、現在なもなき国で暮らしている、唯一の人類の名前は?』『答、ナルセ・ミツキ』。……ひ、筆記試験で、出ました」 「なるほどねぇ。っと、ちょうど到着だよ。お代は……」 「おお、お釣りは要りません!」  ドラマでしか聞いたことのないセリフと共に、私は一万円を差し出す。運転手は驚き半分、戸惑い半分といった様子だったので、「どのみち、日本円は持ち込めないんです」と言葉を添えた。 「ええ? それじゃあ、帰るときに困るだろう。……そうだ、お釣りは帰りの運賃ということにしよう。予定ではいつごろ帰るつもりなんだい?」  どうやら彼は、私が思っていたよりはずっと親切な運転手さんだったようだけれど、あいにくその親切心に甘える機会は、ずいぶんと先のことになりそうだ。 「……『問、今回新たになもなき国で暮らすことになった人類の名前は?』」 「えっ?」  戸惑い全部の親切な運転手さんの顔を指さし、私は「答、カンザキ・サリイ! ……です!」と言ってタクシーを下りる。  ……ちょっと恥ずかしい。  でも、私は今日から、なもなき国に住むんだ!  入国するだけじゃない。住むのだ。その資格を、私は手に入れた。  空は快晴。私は思わず両腕を広げ、大きく深呼吸をした。  空気がおいしい。  なもなき国には、排ガスを出す車どころか、車それ自体が走っていないはずだ。ということは、さっきのタクシーが、私が見た最後の車ということになるのかも。  ……なんて思った矢先に、駐まっている一台の物流トラックを見つけてしまった。   なもなき国の入国管理所前は、まるでかつてはそこになにかが建っていて、そして今はきれいに取り壊されてしまった後であるみたいに不自然に――つまりは人工的に均された空き地だった。想像なのだけれど、おそらくここは駐車場として使われていたのではないだろうか。来る日も来る日も、なもなき国に多くの研究者や政府関係者、そしてなにより報道関係者が訪れていた――そういう時期があったと聞く。でも今では謎の物流トラックが一台駐まっているだけ。    さあて、そろそろ行きましょう!  私は腕を大きく振り、入国管理所へ向け駆け出す。  そして、今さらながらに気付き、振り返った。 「あれ? そういえば、荷物は……?」  もろもろの荷物が詰め込まれたキャリーバッグを、タクシーのトランクに忘れてきてしまっていた。 「うわああああ……」  もちろん、もうあの親切な運転手さんのタクシーの姿は、どこにもない。 「ままままじですか……?」  草の生え始めた平らな空き地に、途方に暮れた哀れな私が一人、いるだけだった。
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