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その夜、仕事帰りの僕と絢さんは、近くの駅で落ち合って夕ご飯を食べにいった。
食べることが好きな絢さんは、SNSやフリーペーパーなどにレストランなどが紹介されていると、行ってみたいお店をチェックしている。
「ひとりだとなかなか行けない感じのお店でも、千紘くんがいるから食べに行ける」
そう言って喜んで、初めてのお店に連れていかれることも多かった。
その日行ったのは、大きな酒蔵をリノベーションしたイタリアンのお店。
吹き抜けの大きな空間に、隣の人の会話が聞こえないよう、適度な距離感で、一枚板のテーブルが置かれていた。
2種類のセットをそれぞれ頼み、いつものように少しずつ味見する。
車を運転しない彼女は、帰りはだいたい電車かバスで、その日は細いグラスに入ったシェリーを呑んでいた。
僕は次の日の予定次第で、ノンアルだったりビールだったりするけど、その日は車を置いて帰るつもりだったので、黒ビールを2杯。
「美味しかったね、雰囲気もいいし、また来よう」
いつも会計を払うのは僕で、外に出ると彼女が割り勘分くらいの紙幣を渡してくれる。
それをすんなり受け取らないと「もう会わないよ、いいの?」と言われるから、財布にそれを入れ、駅の裏道を並んで歩く。
「僕、もうすぐ誕生日なんですよ」
「なに?それ。何か欲しいものでもあるの?」
茶化すように絢さんは言った。
僕が足を止めると、彼女はつられて振り返り、僕を見た。
「僕を、弟から彼氏にしてほしい」
腕を伸ばして彼女の手を握り、僕は言った
手を握られたまま、彼女は僕の目を見つめた。
「私はそういう存在にならないって、最初から言ってあったよね」
その声は落ち着いていて、とても硬かった。
「何度も自分にそう言い聞かせた。そう思って、周りの女性も見てみた。
でも僕は他の人はいらないんだ。あなたがいい」
「時間が経てばきっと、千紘くんも誰か可愛い人をみつけてくる。
それまで相手をしてあげればいい、と思ってた。だから断らなかった。
今はまだ、私と出会って数か月だから、新鮮に感じるのよ。ただそれだけ」
「そうじゃない。僕はこの先もあなたがいい。
あなたに必要とされたいし、あなたを僕のものにしたい」
「私はもう、そういう相手はいらないの。もう二度と痛い思いをしたくない。
あなたはまだ若いから、何かあってもやり直せる年だけど、私はもう、そういうのは嫌なの」
その時、僕は彼女が、恋人も夫もいらない、と言っていたのは、年齢のせいだけではないことを知った。
油断した隙に、彼女の手はするりと抜けた。
彼女は背を向けて小走りになり、裏道を抜けて駅の裏へと向かう。
慌てて追いかけたけど、彼女はタクシープールに停まっていた一台にさっと乗り込んだ。
ドアが閉まる前に追いつけなくて、僕はそこに取り残された。
その後すぐ、メッセージを送ったけど、開封されない。
電話を鳴らしたけど、出てくれない。
僕は自分がいかに甘かったかを思い知った。
でも他に方法はなかった、と思う。
回りくどい方法より、直球でいった方が彼女の心に響くはず、と思っていたから。
まだ人気の絶えない駅の裏道で、僕は途方に暮れた。
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