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彼女は帽子を被ると、僕を振り返ってそう聞いた。
「出てくる少し前」
「じゃあ、もう少し後でも大丈夫?」
僕が頷くと、城址公園を横切ってゆっくり歩き始めた。
「この町に住みたいと思った理由のひとつが、ここだったの。
時代小説が好きで、こういう文化が残ってる町に憧れていたから」
「そうなんだ、子どもの頃、社会見学で来たよ。久しぶりだ」
城址の門をくぐると庭園に入る。
こちらはあちこちに松が植えられ、真ん中に池もあり、緑が多い。
彼女は目的があるらしく、迷うことなく砂利の引かれた通路を歩いて行く。
端まで来ると、何棟か建物が建っていて、門で仕切られている。
そのうちのひとつ、古い書院造りの建物へと入っていった。
靴を脱いで、昔ながらの下駄箱へ入れる。
入ってすぐの受付で、今度は僕が払おうと思ったら、どうやら中に座っている人が顔見知りだったらしい。
「今日は二枚」と言って、入場料を払い、パンフレットを受け取る。
僕にそれを渡すと、回覧の矢印に沿って歩いて行く。
ここは歴代城主の奥方の住まいだったらしい。
工夫を凝らして作られた部屋を巡り、『特別展示室』と書かれた部屋に入る。
「この着物の展示がね、2ヵ月に1度替わるの。だからそれを見に」
今でも着ることのできそうな落ち着いた色合いの布に、隅々まで細かい刺繍が施されたものや、鮮やかな藤の房が描かれたもの、姫用なのか、子どもの着物には、御所車や蝶の図柄が入っている。
その部屋を出ると、目の前に庭があり、広縁が伸びていた。
「いい風」
絢さんはそう言うと、広縁の端まで歩いていく。
「夏の暑い日でも、ここは軒が長く出てるから涼しいのよ」
松の木に囲まれた小さな庭園だけど、ちゃんと池もあって水が注ぎ込まれているのが分かる。
「ここは来たことなかったな」
「そう? ちょっと大人向きの建物だからかな」
今日はヘアスタイルも違う。
仕事の時は、頭の後ろにきっちりとアップにしているけど、今日はひとつに束ねて左の肩へと垂らしている。
「今日はいつもと違うね」
ずっと思っていたことを口にした。
彼女は庭を眺めたまま、少し考えていたけど、目線を変えずに言った。
「これが本当の私よ」
「そうなんだ」
僕はそれ以上、何を言ったらいいのか分からなかった。
もしかしたら、試されているのかも知れない、そう思ったから。
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