1082人が本棚に入れています
本棚に追加
次の日、目覚めると絢さんはベッドにいなかった。
それもそのはず、時計を見ると、もう8時近くになっている。
休みなのをいいことに、寝坊させてくれたらしい。
パジャマのままでリビングへ出て行くと、声を小さくしたテレビの向かい、ソファの足下のラグに座りこんで、ソファの座面にもたれかかっている彼女がいた。
「おはよう」
そう言って、リビングを横切り、キッチンスペースに歩いて行く。
「あ、うん」
浄水器から水をコップに注ぎながら、なんとなく彼女を見た。
彼女はぼんやりテレビを見ている。なんか表情が冴えない。
どうしたのだろう、と思って近づいていき、コップを持ったまま、彼女のすぐ後ろのソファに座る。
テレビの画面の端には、『不妊治療最前線』という文字が。
長く治療をしていながら、やっと子どもを授かった夫婦が、嬉しそうにインタビューに答えている。
「絢さん?」
そう呼ぶと、彼女は僕を見た。どう見ても、泣いていたようだった。
よりによって昨日の今日だから、あのことしかない。
「また変なこと、考えてるでしょう。
僕に子どもを抱かせてあげられないとか、僕にはもっと、他の人の方がいいんじゃないか、とか…」
そう言うと、彼女の目から涙がにじんできた。
「千紘くん、子ども好きなのに…」そう言って、袖を顔に当てる。
前の妊娠が分かったとき、僕が、子どもが生まれてくるのをとても楽しみにしてたことを、彼女は知ってる。
自分の心と身体が傷んだことの方が大事なのに、必要以上に心を痛めてしまうんだ。
僕はこの際だと思って、強行手段に出ることにした。
床に座っていた彼女を強引に抱き上げて、ソファに乗せると、そのままの勢いで押し倒した。
「きゃっ」
普段はしない強引さに、絢さんはいつにもなく戸惑った声を上げる。
両腕を押さえ込み、上になって彼女の顔を見る。
そして、その唇を塞ぐ。
何度も唇を食んで、いつもより濃厚なキスをする。
一度顔を離して、何をするのかと驚いたような顔の彼女に、僕は自分のパジャマのボタンを外しながら
「僕にどのくらいあなたが必要な存在なのか、思い知らせてあげる」
そういうと、もう一度唇を塞ぎ、そのまま首筋の方へ滑らせる。
いかにもそのまま進めそうな勢いで、彼女の着ているセーターの下から手を入れた。
「…ごめん、ごめんね。分かったから、もう言わないから許して」
僕の肩を押すようにして、絢さんは言った。
「本当に分かった?」
動きを止めて身体を離すと、目線を合わせて聞く。
彼女は声に出さずに、うん、と頷いて見せた。
僕はソファに座り直すと、彼女の身体を起こして自分の膝の上に座らせた。
彼女の両腕を僕の首に回させる。
「子どもを持たないってことは、この先、ずっとふたりで生きていくってことでしょ?」
絢さんは僕の目を見て、黙っている。
「だから、僕はあなたの気持ちが離れていかないように、いつも大事にして、甘やかして、僕じゃないとだめだと思わせないといけない。
あなたがそうやって迷うってことは、僕はその役を果たせてないってことでしょ?
だからもう迷わないで。僕を手放すことなんか考えないで。分かった?」
そう聞くと、彼女はまだ黙っている。
「返事は?」
聞いても答えがないから、
「やっと結婚してもらったのに、僕があなたから離れられると思う?
あなたが思うより、僕があなたのことを好きだってことが、何で分からないの?」
念押しすると、小さな声が「分かった」と返ってきた。
「ごめんね」
「もう『ごめんね』は、なしだよ。
絢さんは僕の妻で、姉さんで、妹で、恋人で、大事な人だから。
絢さんは僕を、夫で、弟で、時には兄さんで、たった一人の大事な恋人にしてくれないと」
彼女はそんな僕を見つめていて、その後、頬にチュッとキスをしてくれた。
「私はそんなに価値のある人間かしら?」
「妻の価値を上げるのは、夫の仕事だ」
「そうなんだ。じゃあ、夫の価値を上げるのも妻の仕事ね」
そう言って、彼女はやっと微笑んだ。
ふたり微笑み合って、いつものように軽いキスをした。
こっちの方が、僕たちらしい。
「お腹すいた。なんか食べさせて」
そう言うと、一瞬彼女は目を丸くして、心からの笑顔を見せてくれた。
最初のコメントを投稿しよう!