可愛い人

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やや温くなった風呂にゆっくりと浸かり、パジャマになってリビングに出てくると、テーブルの上に彼女のスマホや鍵が置いたままになっているのに気づいた。 隣には、さっきまで胸元に見えていたネックレスと、外したピアス。 この前の誕生日に、僕が贈ったものだ。 あの日、マンションに帰ると、絢さんはドレッサーの前で、さっそくピアスをつけていた。 後ろに立って、プレゼントしたネックレスを彼女の首に掛けてあげた。 髪を手で後ろに流し、よく見えるようにしながら、 「可愛い。なんか初めからセット商品だったみたいだ」 そう言うと、彼女はふふふっと笑った。 そんなことを思い出しながら、これをどうしようか、と考えた。 ネックレスはともかく、ピアスは転がって落ちてしまったら、どこにいったか分からなくなる。 それらをつまむとベッドルームに行って、彼女のドレッサーの上に置かれていたアクセサリーケースの蓋を開け、空いているところに入れてあげる。 他にも、ピアスとネックレスが小さい仕切りのなかに並んでいた。 一つだけリングがある。結婚指輪だ。 水仕事をすると、指輪の辺りがどうしても荒れるらしく、彼女は最近、指輪をしていなかった。 僕の指には、しっかりはまっているのに。 プロポーズしたとき、彼女の薬指にはめてあげて 「これでもう、絢さんは僕のものだよ」 そう言っておいたのに。 アクセサリーケースの横には、腕時計の収納ケースが置いてある。 5本の時計が入るよう、仕切りがあって、そのうち4つまでは埋まっている。 今は時計をはめない人も多いけど、彼女のような講師業に、腕時計は必須なのだそうだ。 今日のように、ステージなどに立っていると、ちょうど見える位置に掛け時計がないことがある。 彼女はそういった仕事用に、女性用としては大きめの文字盤を持つ時計を、色違いでふたつ持っていて、洋服の色に合わせて替える。 あとは普段用に、革ベルトのと、バングルタイプのものが入っている。 同居するようになった頃、この収納ケースにはもう一本、時計が入っていたのを、僕は知っている。 それはどう見ても男物サイズで、四角い銀の文字盤の、太いバンドのついた時計だった。 「それ、電池終わってるんじゃない? 止まってるよ」 気づいた僕がそう言うと 「これはもう、使わないものだから…」 そう言って、彼女はさりげなくそこから取り出し、ドレッサーの引き出しの奥に入れた。 そっとその引き出しを開けてみると、時計はまだ入ったままだ。 これがどうやら、前に付き合っていた男性の持ち物らしい、ということは、なんとなく気づいていた。 あまり深くは語らなかったけど、「最初から、公にも、将来の約束もできない相手だと分かっていた」と彼女は言った。 前の会社を辞めてフリーランスになったのも、その人とのことがこじれたからのようだ。 そのことを彼女は気にしていて、一度は入籍を断られた。 「あなたの過去は気にしない。これから先、ずっと隣にいてくれればいい。  僕にはこれからの時間の方が大事だから」 その時はそう言って、彼女を抱きしめることしかできなかったけど、今はもう少し頼られていると思う。 …でも、この時計は捨てないんだね。 結婚できないと分かっていながら、深い付き合いになったんだから、きっとそういう相手だったんだろうけど。 プレゼンに横やりを入れられて、あんなに泣いていたのに。 引き出しをそっと元に戻すと、健やかな寝息を立てている彼女の横に滑り込む。 小さな灯りの中、こっちを向いている、彼女の顔にかかる髪を後ろに流してあげる。 そっと頬に触れた。 薄い橙色の灯りに照らされ、毛布の中で小さくなって眠っている彼女は、ステージの上で堂々と話す人とは別人のようだ。 仕事の時は、その小さい身体を意識することはないのに、家にいるときは153センチそのままの、等身大の彼女だ。 そのままの彼女でいられるようにするのが、僕の役目だ。 僕にしか見せない、ありのままの自分でいられるように。 そして彼女といるときの僕は、より優しくなれる。 一緒にいることで、彼女が僕にも良い影響を与えてくれる。 電気を消すと、枕元に置かれていた彼女の手をそっと握って、僕も眠りに落ちていった。
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