トイレのモーツァルト

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遠くからでもイライラしてるのが分かる。話しかけたくない、近寄りたくもない。先輩の山田チミ子氏は社内でも有名な気分屋さんだ。一見愛想が良く、良い人を装っているが、その正体は人の悪口を言う為に生まれてきた妖怪ババアである。一旦何かで機嫌を損ねさせてしまうとターゲットにされ、無視、乱暴な言葉遣い、嫌がらせ、陰での悪口のオンパレードである。そんなチミ子氏に私は今から話しかけにいかないといけない。そして私は現在ターゲットであり、しかも何があったのか知らないが彼女の機嫌はすこぶる悪いときてる。わざわざ蜂の巣にされに行くようなものだ。しかし彼女は上司で部下の私は手に持った報告書をご覧になっていただかなくてはならない。フゥっと息を吐いて気持ちを入れ替えた気になってから話しかける。 「後藤さん、お忙しいところすいません、○○の件ですが、お時間がある時に目を通していただけますでしょうか?」 不機嫌な顔で無視。予期していたとはいえ動揺を隠せない。嫌な汗が全身から滲み出る。チミ子氏は会議の資料に自分の名前を書き込んでいる。どうでもいい作業だ。少なくとも横から話しかけられているのに無視してやらなくてはいけないことでは絶対ない。私は引きつった笑顔で腰を30℃ほど折り曲げてファイルを両手で差し出した格好でフリーズしてから5秒が経過した。長いぞ。無視の5秒は長いぞ。よくできるねアンタそんなこと。普通は無理よ。この距離で話しかけられて無視はケンカ中の恋人同士でもなかなかないよ?しかもここ会社よ?誰しもが感情を押し殺して穏便をモットーに過ごしている場所なのよ?なに自分だけ感情丸出しにしてんだよこの野郎。このファイルで頭しばいたろか。いや待て、あぁそうかコイツは精神年齢が幼児で止まってるんだった。だから仕方ないんだった。幼児は感情表現を我慢しないし、時と場所も関係ないもんね。そうだ、そうだ、この前風呂に入ってる時に気づいたんだった、そうだ、そうだ。ということを1秒間の間に考えていると、突然ファイルをひったくられる。 「わたし前ゆうたよね?こんなどうでもエエこと今せんでええって!優先順位考えろって何回言うたらわかんねん!!」 引ったくったファイルをバシバシと机に打ちつける。私の心もズキズキと痛む。怒鳴り声で周りの同僚達が一斉にこちらを見る。後輩の塚田にいたってはほくそ笑んでいるのが見えた。この会社には人の不幸をオカズに飯を食うタイプの人間しかいないが、後藤や塚田に至っては積極的に人が不幸になるように仕向けてくるタイプだ。 「‥すいません」 謝ってしまう自分も情けない。 「あんたなぁ、もっとしっかりせなアカンで。今いくつや。32!?もう30超えてんのかいな!ほなどうしようもないわ、もう一生直らんわ、ハァ(わざとらしいため息)もうええわ、じゃあこれコピーしといて、それぐらいやったらできるやろなんぼアンタでも。間違ってもコピーのやり方分かりませんとか言いにこんといてや!」 どこかしらか吹き出し笑いが聞こえて、それに釣られて2.3人が笑う。私は吐き気がする思いでチミ子氏に一礼をしてからコピー機に向かう。 「生松さん、ついでにこれもいいですか?」 塚田が嘲りの表情で用紙を渡してくる。 コイツはマジでクズだ。 「うん、良いよ」 笑顔を作った事を後悔。自分でやれよという勇気もない。こうやってバカにされて下に見られてこれまで生きてきた。 3ヶ月ほど前に入った警備員の沼田がこちらを見ている。 沼田はハッキリ言って見た目が気持ち悪い男だ。人を見た目で判断してはいけないが、生理的に受け付けない。 まるで餌をもらう金魚のように少し上を向いて口をパクパクさせながら、ズルズルと床を這うように歩く。 会社の人間と彼が話しているのはおろか挨拶をしているのも見たことはないが、彼はなぜか私にだけは時折話しかけてくるのだ。 おはようございますとか今日は良い天気ですねとか、それならまだ良いが、前髪切られました?とか肌の調子が悪いようですねとか、突然言ってくるのだ。 しかも喋り方が粘っこくて遅い。適当に笑ってごまかしているが、万が一私に好意があるのだとしたらまっぴらごめんだ。 重い足取りでトイレに向かう。疲れる。人間は本当に疲れる。もう誰の顔も見たくない。 心底人間という生き物が嫌いだ。みんな悪人だ。全部まるごと心がキレイな人など出会った事がない。 あっこの人は!と思ってもやっぱり上辺だけでしたっていうことの繰り返しなので、もう期待するのはやめた。うっかり良い人そうな人に出会ったら要注意だ。良い人渇望症の私はついつい心を許してしまいそうになる。 人間はみんな内側に悪魔を潜ませていることを忘れてはいけない。 性格の悪さが顔や態度に滲み出てるチミ子氏や塚田のような奴らばかりなら分かりやすいのだが。 女子トイレには利便性の面で混みやすい所とそうでもない所があり、もちろん私は後者の方を利用するようにしている。なぜなら1人になりたいからですよ。誰の顔も見たくないんだから。西側の3階は資材しか置いてなくて普段人の出入りが少ないのにトイレはちゃんとあるという夢のような場所なのだ。そのトイレの4つある個室の1番奥が私の定位置だ。 会社という常に人の目が気になる場所で唯一自分だけの空間を確保できるので落ち着いて休憩ができるし、最近はお弁当もトイレで済ませている。 ここで急に突拍子もない話をさせてもらうが、実は私は昔から幽霊をしばしば見る。そう、マジの幽霊だ。これを他人に言うと危ないやつだと思われて急に態度がよそよそしくなるので、少なくとも自分からは言わないことにしている。 私は幽霊を怖いと思ったことはない。物心つく前から見えてるし、その光景が私には当たり前。 それに映画のシックスセンスみたいに頭が半分吹っ飛んだ状態でウロウロしてるわけでもない。みんな元気でハツラツとしてる。生きてる人間と違うのは彼らは全身が青白く光ってるというぐらいで、感覚的に私にとって彼らは、人間というよりノラ猫がウロウロしてるようなのと一緒だ。 ハァと深いため息をついてトイレのドアを開けると、ヨーロッパの貴族みたいな格好をした外国人の幽霊が仏頂面で便器に座っていた。 「え?なんで!?」 思わず声がでる。 「なにがだよ」 幽霊が面倒くさそうに喋った。 ちなみに私は幽霊とは普通に会話ができる。幽霊語ってやつがあるのだ。 「悪いんですけどヨソ行ってくれないですか?ここ私が会社でゆいいつ心が休まる場所なんですよ」 「ふーん。」 気の抜けた適当な返事にイラっとした。 「オレだってこんなクセぇとこいたくねぇよ」 「だったら‥」 「それがよぉ、もうすぐ生まれ変わるらしいんだけどな、体を現世に慣らす為に一ヶ所でジッとしてなくちゃならんのだとよ。」 「なによそれ、じゃあなんでここなんですか」 「しらねぇよ!勝手にここにされたんだよ」 「‥ウソでしょ‥じゃあせめていちばん手前の個室に移って下さいよ!」 「だからこの個室から出れねぇんだよ!」 「いいから出てって下さいよ!」 私は頬杖をしている幽霊の右腕を掴んで思い切り引っ張った。(私は幽霊を触るコツも知っている。) すると幽霊はトイレの個室から体が出る直前に、自動ドアが反応せずに顔面を打ちつけた人のようになってから後ろに倒れた。 「痛っ!!」 「えっ!?ごめんなさい!」 想定外のことに体が固まった。どうやらこの個室の枠から出られないというのは本当らしい。 「だ、大丈夫?」 面倒くさそうに起き上がりお尻をはたいてから、ゆっくりとまた便器に座って足を組む幽霊。くるくるパーマの長髪が乱れてしまっている。キッっと上目遣いで私を睨む。 「そういうことだよ」 私は一気に途方に暮れた。私が諦めるしかないのだろうか、しかしここを失えば私はもう会社では生きていく自信がない。ここでの息抜きがあるからこそ仕事でもなんとかやっていけているのだ。もうそういうふうに体がなっている。 「期間は決まってるんですか?」 「あぁ、1ヶ月ぐらいらしいけどね」 1ヶ月か。仕方ない。 「わかりました、じゃあそれまでは共同で使いませんか?私はどうしてもここでなくちゃダメなんです」 片方の口角を上げてフッとニヤける幽霊 「共同って、オレはここから出られないっつってんだから、アンタが糞する時、オレは横にでも立ってんのかよ?」 そんなことは分かっている、でもこっちだって意地だ。 「そういうことです」 頬杖をついたまま黙ってあさこを睨んでいる幽霊。 「いやだね。ここはおれがずっと使用中の状態なんだから、他の人間が入ってくるのはおかしいだろ。アンタが他所にいきなよ」 「イヤです。じゃあまた来るんで」 我ながら強気に言い放ってドアも強めに閉めてトイレをあとにした。そしてすぐに共同なんて言ったことを後悔する。 確かにあのトイレはもはや自分だけの部屋のように愛着があるが、幽霊と共同で使わなければいけないほどではないだろう。 なにやってんだ私は。 いやでもやはりあの場所をはいどうぞと譲りたくはない。 そうやって同じ事を何度もぐるぐる考えていたら、オシッコをしていない事を思い出した。 「アンタ新入社員のあの子より使えへんで」 ニヤニヤしながらチミ子氏が言ってくる。私が凹む様を見たいのである。 正直グサッときて大量出血しているが無表情を心掛けて遠くの方を見ながら、あーそうですかぁ、と精一杯の抵抗。 「アンタ同時に2つの事できひんやろ!?」 は?できるわ!と言いたい気持ちと、私はそういう風にみんなから思われてるんだというネガティブな気持ちが入り混じって、認めた方が話が早く終わると判断し、ああはい、と答える。満足気なチミ子氏。 「悪いんですけど、やっぱり背中向けて前に立ってくれないですか?横で見られてると緊張して出ないです」 便器に座る私と、その横にふてくされて腕組みをして立つ貴族風の幽霊。 「ああぁぁん?!いいから早くしろよ!」 「ちょっと動くだけじゃないですか!」 「席を譲ってやってんのに、そのうえ指図してくんなバカ!何様なんだおまえは!」 「あんたこそ何様よ!気持ち悪い髪型と格好して!」  「モーツァルトだよ!!学校で習っただろ!モーツァルト!!」 「はぁ?アンタみたいなんがモーツァルトならアタシもモーツァルトだよ!ふざけんじゃないよ!」 「あぁ!?なぁにいってんだバカこの野郎!!」 目を剥き出し青筋を立ててツバを飛ばす自称モーツァルト 「もういいから早く前に向いてよ!」 「誰が向くか!つうか出てけこの野郎!!」 「出て行かない!私はオシッコしてない!オシッコするまで出ないよ!」 そう言って眉間に皺を寄せてオシッコに集中する。 「おぅ!出してみろよ!!見ててやるよ!」 自称モーツァルトは顔面を私の顔面ギリギリに近づけて睨んできた。 気にするな、オシッコに集中しろ!私は膀胱に全神経を集中させた、尿を下におろせ、わずかに尿の動きを感じる、もう少し、尿道の周りの筋肉の緊張を緩めろ!きた!勝った!シャー!勝利の放尿。 と同時に自称モーツァルトがくるくるパーマの髪の毛を床に叩きつけた。 不自然だと思っていたが、やはりカツラだったのか。 プンスカ仏頂面の自称モーツァルトの地毛はやはり陰毛のように縮れていた。 今日はチミ子氏が部長に怒鳴られている場面に遭遇した。それは愉快な話でよくある事なのだが、その場にたまたま私も居合わせたのがまずかった。私は早くその場を立ち去りたかった。なぜなら怒られているのを他人に見られる辛さはよくわかるし、なによりチミ子氏の場合はそれを見られた相手に対して威厳を保つ為に八つ当たりをしてくるという性質がある為だ。それを回避するにはとにかくその日は近づかない目を合わせない存在を感じさせない、これに尽きる。だがどうしても私は作業上その場を離れる事が困難だった。本来なら全てをほっぽり出して退避すべきなのに。案の定それはやってきた。 「その作業やる意味ある?」 意味はもちろんあるし、チミ子氏自身も普段やっている事だ。そういうことを急に言い出す。怒られた、それを見られたイライラをどこかにぶつけたいんだろう。おかしなスイッチが入ってしまっている。ああイヤだイヤだ。 ブリブリブリ!ビチビチビチ! 「はぁ、やっとでた」 「くっさ!!おぅえ!おまえさぁ、せめて下痢の時は別のトイレでやってくれよぉ」 「無理よ。私は家かココでしかウンコが出ないようになってるから」 「はぁ、ヘドロもよくこんな臭っさい便座舐められるよ」 「えっ?えっ?なに?なんのこと?」  「あぁ、いつもお前がトイレ使ったあとすぐにメガネの気持ち悪い男が入ってきて便座を舐めてんだよ」 言葉の衝撃が強すぎて頭が真っ白になる。我に帰るのに4.5秒。バッ!と立ち上がりお尻を触って臭いを嗅ぐ。 「‥うそでしょ?」 「ほんとだよ。少なくともおれがここに来てからはずっと来てるぞ。たぶん今も近くで待ってんだろうね」 サーっと血の気が引く私。 「‥そいつってさ、ズルズルとした歩き方で、金魚がエサもらう時みたいに上向いて口パクパクさせてる?」 「そうそう!まさにソイツだよ!だから俺アイツのことヘドロって呼んでんだよ、気持ち悪りぃよなアイツ」 クックックと笑う自称モーツァルト。 沼田だ。 私はわざと人の出入りが少ないトイレを使っている事を初めて後悔した。 どうしよう。怖い。気持ち悪くて怖い。略してなんて言う?そんなことはどうでもいい。 「なんだよ、びびってんのか?」 ニヤニヤしてる自称モーツァルト。 「今もそこで身を潜めてるかと思うと怖くて出ていけない。どうしようもうすぐ休憩時間終わっちゃうのに‥」 仏頂面に戻る自称モーツァルト。 「なんだよ、つまんねぇなぁ、ガツンと1発殴ってこいよ、それでも舐めにきたらヘドロは大したもんだよ」  「どうでもいいよそんなこと!ていうかなんでもっと早く言ってくれなかったのよ!」  もはや半泣きの私。 「いや、おまえ逆に嬉しくないの?お前みたいな35点の女に性的興味を持ってくれてんだぜ?気持ち悪さは一旦置いといてそこはどうなのよ」 「気持ち悪いしかないよ!!」  気持ち悪さや怒りやなんやらで体が小刻みに震えてきた。 「つうかオレと普通に話してるお前も普通はよっぽど気持ち悪いけどな」 「‥」  「‥チッ。わかったよ、じゃあちょっと弁当の箸出せよ。」 「えっ?なんで?」 「いいから早く」 訳がわからないままカバンから箸の入れ物を出しモーツァルトに渡す。  仏頂面で箸を取り出して入れ物をあさこに返すモーツァルト。 「はい、じゃあ行っていいぞ」 手で払う仕草。 「は?」 「走って行けよ、怖いんなら」 「いやいやちょっと待ってよ!」 「早くいけよ!仕事始まるぞ!怒られるぞ!」  「えーっ!もうっ!」 モーツァルトの圧に押し出されるようにしてトイレのドアを開けて出口に向かって走る。 トイレを出てどっち側に沼田はいるんだろう、考えても分からない、それに遅刻しそうなんだから遠回りしてる場合じゃない、右だ!勢いよく曲がる、いつもの職場に戻るルート、駆け抜ける、隠れてる沼田を見つけたくない、なるべく前だけを見て走る、でもどうしても物陰が気になって目の端で探してしまう、いないでくれ!無我夢中で走る、こんな時に限って誰もいない、誰でもいいからその辺を歩いてくれてたりしたら安心できるのに、もうすぐ、もうすぐ職場だ、階段を駆け上がる、着いた!明るい照明、大勢の人、良かった、 「ははっ、いとうさんすごい顔ですね、さらにおばさん度が増してますよ」   塚田の嫌味を初めてノーダメージで受け取った。 自称モーツァルトは何をしたかったんだろう、沼田は来たんだろうか、とりあえず仕事だ。仕事しなくちゃ。 沼田はいつものように、あさこが出ていくのを確認してから女子トイレに入ってきた。 ヒタヒタ。靴底を擦って歩く。 どっぷりでた腹、アゴが上がって口をパクパクさせている。 興奮してメガネが曇るので人差し指で拭う。 いまだに女子トイレに入るのはためらいと緊張があるが沼田はそれも1つの性的材料としていた。 あぁまだあの女の体臭がトイレ全体に残っている、柔軟剤の奥に感じる淫部の匂い、たまらない、早く便器を舐め回したい。 待っている間から勃起していた股間が疼いてさらに破裂しそうになる。 あの女の使う個室はいつも同じだ。 ガチャ。ドアを開けた瞬間にあの女の濃厚な臭いが沼田を包む。 たまらず跪いて便座にむしゃぶりつく。 ハァハァ、美味しい、味がする、あの女の味だ、オレはこの為に生きている。 あっ!床に隠毛が落ちている、おそらくあの女の毛だ!やった!その1本をピチャピチャと丁寧に舐めたあと、奥歯ですり潰しながら飲み込む。 あの女の一部がオレの体の中に入ってきた、 クククっ、 ん?まてよ、この中の水も流したとはいえあの女の排泄物の成分は残ってるじゃないか、 今までなんて勿体ないことをしてたんだ! 両手で便器内の水をすくって一心不乱に飲んでいく、うまいっ、うまいっ、手ですくえなくなったら顔を突っ込んで直接舌で水を吸い上げる、そのまま便器の裏側も丁寧に舐め上げる、うっ!たまらず射精しても構わずそのまま便器の外側に取り掛かる沼田。     チン。    チン。      チン。   ん?と沼田の舌が止まる。    チン。  確かに聞こえる。 何かを叩くような音。 なんだ?   辺りをキョロキョロする沼田。 夢中になりすぎて誰かが入ってきた事に気がつかなかったのだろうか? 曇りきったメガネの奥のギョロっとした目を見開いて耳を澄ませる。 体中が脂汗でねっとりしていて熱い。   チチチン。 チッチッチッ。  違う音だ。 ゆっくりとドアを開けて外を確認する。 誰もいない。他の個室にもいないようだ。 チンタン!チンタン!  ビクっと反応する沼田。  そして沼田はありえないことを考えざるを得なかった。 音はまさにこの個室で自分ではない誰かが鳴らしている。 確実にそういう音だった。 ベトベトになった口周りを袖で拭う。     たんたか!たんたか!たったーん!  ガンっ!おののいてのけぞり壁に頭を打ちつける。 誰かが目と鼻の先にいる。 それはもはや間違いない。 その何者かはこの個室の便器のフチやトイレットペーパーや壁や床などをまるでその音を確かめるように棒のようなもので叩いている。 沼田はこの49年間幽霊の類は一度たりとも見たことがないが、そういう存在がいるという事を否定はしない。 だがそうして幽霊とは無縁の人間だと考えていた人間が突然遭遇の瞬間を迎えた時、あまりの恐怖に失禁して糞を漏らし、金魚のようにパクパクした口は速度が10倍速になり、曇ったメガネが寿命を迎えて粉々に割れた。 職場備品のカッターナイフを手に、私はトイレに向かっていた。 一旦は仕事に戻ったものの、よくよく考えると沼田に対してだんだん腹が立ってきたからだ。なぜ私があんな奴にビビらないといけないのだ、気持ち悪い事をされておめおめと逃げてきた自分が許せない。 こうしている間も沼田、いやヘドロは嬉しそうに便器を舐め回していると思うと怒りが込み上げていても立ってもいられなくなり、体調が悪いと言って抜け出してきた。 そんなウソをついたのは入社してから初めてだ。 ヘドロと対面してどうするとか具体的に決めているわけではない。 女子トイレにいる時に鉢合わせできれば奴は慌てるだろうし、それが私でしかも全て知っていると言えば狼狽して許しをこうてくるに違いない。 万が一襲いかかってきた時の為にカッターもある。 鼻息を荒くしてもう少しでトイレに着くというところで、 微かに音楽が聴こえてきた、と思った瞬間、 私は森の中にいた。。 頭が真っ白になって呆然と立ち尽くす。 2つの目だけが私の意思とは関係なくキョロキョロと動いて情報を仕入れようとしている。 驚きの次に来た感情は心地良いだった。 朝の日の光が木々や湖をキラキラと照らし出し、色鮮やかな小鳥達が気持ちよさそうに木の上で毛づくろいをしている。  空気がとても澄んでいて深呼吸をしたくなる。なんて素敵な場所なんだろう。 こんな所で暮らせたらストレスとは無縁の生活が送れるだろう。  そうして一歩二歩と湖へ近づこうとした時、その美しい光景はまるで霧が晴れるように消えていき同時に音楽も聞こえなくなった。 私は見慣れた薄汚いいつものトイレ前にぼんやりと突っ立っていた。 今の出来事が何だったのかは直感的に理解した。 我に帰った私はトイレを覗き込む。 誰もいない。 ゆっくりと少し中に進む。 強烈な嫌な臭いがする。吐き気がしてきた。 手前の個室はドアが空いていて人はいない。 2番目も同じ、3番目も同じ、最後の4番目は、閉まっていた。 いる。ヘドロがいる。 物音はしない。コンコン。返事がない。 「開いてるよ」 モーツァルトの声だ。  ゆっくりと押し開けようとするが開かない。 「ヘドロの足がつっかえてんだよ。もっとグッと押せ」 腰を落として力を込めて押し開ける。 手を洗う所に足を組んで座っているモーツァルト。 そして、床にはヘドロが口をパクパクさせて失神している。 「臭っせぇからどっかやってくんねぇかなコイツ」 この状態のヘドロをもえるゴミとして捨てても誰も気付かないだろうと思うほど汚かった。 とりあえず会社に連絡してしばらくすると警察が来た。 ヘドロは左右を屈強な警官にホールドされて連れて行かれる時に 「アナタのオシッコの味は最高でした。今までありがとう」 と言いやがったので渾身のストレートを顔面に撃ち込んでやったら私も連れて行かれそうになった。 「あんたやっぱすごいんだね」 弁当の卵焼きを頬張って咀嚼しながらまじまじと箸を眺める。 「なにが?」 相変わらず仏頂面で手を洗う所に座っているモーツァルト。 「こんなので人を感動させられるなんてさ」 箸をカチカチ鳴らす。 「どんなところだった?」 「どこか外国の森の中で、湖もあって、すごくキラキラしてて、とにかくずっとそこにいたいと思った」 「そんだけ伝わりゃ上出来だな」 少しの沈黙。 「生まれ変わっても音楽やるの?」  「そいつ次第だよ。オレの人格はなくなっちまうからな」 「‥ごめんなさい」  「謝ることじゃない」 「‥才能は引き継げるってこと?」 「米津玄師っているだろ?あれの前はベートーヴェンだよ」   「そうなの!?」 「リンカーンは2日前にネグレクトで衰弱死したらしいけどね」 「えっ!‥」 「そういうもんだよ」 「そういえば塚田さんてどうなったの?」「クビだよ。そりゃそうでしょ、会社の金を横領したんだから」「素っ裸で社長に土下座させられたらしいよ」「えー!マジで?」 ズカズカとトイレに入ってきてバンっとドアを閉める。 「あー!ムカつく!あのババア!自分はクソみたいな人間のくせに!」 「‥えらく‥イラつい‥てる‥な‥」 「どうしたの?かみかみじゃん」 ふっと笑い振り返る私。 「‥もうす‥ぐ生まれ変わ‥る‥みたい‥だな」 よく見ると青白い全身がゆっくりと消えかけたりまた濃くなったりしている。 声もまるで電波の悪いラジオのように途切れ途切れだ。 ただ本人はいつもどおり仏頂面で落ち着いているので、痛いとか辛いとかはないようだ。 「えっ‥、そうなんだ‥急だね‥もっと先の話かと思ってた」 顔が引きつるのを誤魔化そうとした。 「なかな‥か愉快なト‥イレ生活だ‥ったよ」ニヤっと笑うモーツァルト。 「ははっ!なによ、らしくないわぁー」 無理して笑った その日急いで仕事から帰った私は、家の押し入れを引っ掻き回していた。 「あった!」 小学生の頃に使っていたリコーダー。 革製の入れ物はホコリを被っていて、名前を母親が油性ペンで書いてくれた思い出が蘇る。 取り出して臭いを嗅いでみると少しカビくさい。 なんとなく覚えてる「ド」の指でちょっとだけ吹いてみる。 ピー。 最後に、モーツァルトがまだモーツァルトであるうちに「楽器」に触れさせてあげたいと思った。 彼は望んでいないかもしれない。 もうすぐ人格が消えるのに音楽に未練が残るような事をするなと怒るかもしれない。 弁当の箸であれだけの事ができるんだから、「楽器」を持てばどうなるんだろうという私の身勝手な興味だけなのかもしれない。 でもそれらを差し引いても、彼は最後に「楽器」に触れるべきだと思う。 キレイに洗浄して忘れないようにカバンに入れて就寝した。 はずだったが眠れない。 明日会社に行った時にはもうモーツァルトは消えているのではないだろうか。 いやもう少し透明になってさらにカミカミになっているぐらいで消えてるということはないだろう。いやなにを根拠に? 堂々巡りの結論は、今行くしかないだった。 時刻は午前1:30。 リコーダーを車の助手席に置いて貸し切り状態の環状線をかっ飛ばした。 寝ぼけ眼の守衛に忘れ物をしたと言って鍵をもらい中に入ったが、誰もいない何の物音もない薄暗い社内はさすがの私も気味が悪かった。 早足でトイレに向かう。 手にはギュッとリコーダーを握りしめている。 到着。いつものトイレ。 少し息を整えてから中に入る。 奥へ進むと、一番奥の個室からはいつものように青白い光がぼんやりと見える。  良かった、まだいる。 ホッとしながら個室を覗き込むと、モーツァルトは辛そうに両手で頭を抱えて俯いていた。 「どうしたの?大丈夫?」 モーツァルトはさらに透明になっていた。 しんどそうに片目であさこを見上げる 「‥あ‥にし‥よ‥」 もう聞き取ることは難しかった。 私はモーツァルトの横に寄り添って背中をさすった。 モーツァルトの体が蒸発するように少しずつ消えているのがわかった。 彼の残り時間はもう長くはない。 どんどん消えていく。 私の手もだんだん彼を感じ取れなくなってきた。 彼の命が次の世代に引き継がれようとしている。  「ん〜〜、ぱぁっ!!」 ガバッ!と顔を上げるモーツァルト。 「はぁはぁはぁ、あれ?もっていかれたと思ったんだけどな」 モーツァルトの体や声がはっきりとした状態に戻っている。 「えっ!戻ってるじゃん!」 私は驚いて、泣きながら笑っている 「たぶん陣痛が一旦収まったんだろうな、次きたらマジでおさらばだろうね」 私の心臓がドクンと大きく動いた。 「ほい」 手のひらを私に向ける。   「えっ?これ?」 仏頂面になってリコーダーを奪い取るモーツァルト。 しげしげと眺めたり接続部分を調節したりしたあと、先っぽの臭いを嗅ぐ。 「くさっ!」 「洗ったよ!失礼な!」 猫背で足を組み、目を閉じてリコーダーを構えるモーツァルト。 急に私が緊張してきた。  そこにいるのにいないかのような不思議なオーラがモーツァルトを包み込んだ。 近寄り難いような、それでいて優しい温かみのあるオーラだ。 「そうだ、言い忘れてたけどさ」 急にいつものモーツァルトに戻り、オーラも消える。少し拍子抜け。 「えっ?なに?」 「あの山田チミ子って女さ、たまに糞しに来てたけどな、むちゃくちゃケツ汚いぞ!」  「‥‥なんだそれ!!」 2人とも吹き出して笑う。 お腹が痛くなるほど笑って落ち着いた頃、またモーツァルトがオーラに包まれた。
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