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「はぁ、はぁ、……は」
数年ぶりの全力疾走はなかなかきついものがあった。思えば最後にこんなに本気で走ったのはいつが最後だったか。だらだらと流れる汗を力任せに拭う。暑い。暑いのに、どこか薄ら寒くて落ち着かない。
(気のせいだ)
自分に言い聞かせるように何度も気のせいと心中で繰り返す。気のせいだ、何もなかった。
荒い呼吸が落ち着いてくる頃には、だいぶ冷静になっていた。
(初めての場所に赴いたせいで、年甲斐もなくはしゃいでしまった)
こんな風に気分が高揚することなど滅多にないから、脳が誤作動でも起こしたのだろう。無理やりにでも納得してしまえばこちらのものだ。たとえ頭のどこか片隅であそこはだめだと囁き続ける声があったとしても、もはや過ぎたことなのだ。
改めて時間を確認すると、今度は腕時計も携帯もきっちり八時を示していた。早く出たにもかかわらず、予定より一本遅いバスに乗らなければならない。そうすると結局、出勤時刻は普段通りの八時半になりそうで、何ともしがたい気持ちになる。
(まあ、寄り道をした上の遅刻などにならなくてよかったか…)
一つ大きく息を吐いたら、いつも通りの自分が戻っていた。そのことにどこかほっとしながら、ようやくバス停へと足を進める。
そして目が覚めた。
朝の光がカーテンの隙間から零れている。ぼんやりと目線だけを動かし、そこが自室であることを確認した。
「……」
壁にかけてある時計はあと一分で六時を指すところだった。どうやら目覚まし時計が鳴る直前に目を覚ましたらしい。身を起こすついでに枕元のアラームを切る。
「なんか変な夢を見たような……」
呟いたつもりが掠れきって声にならず、水を求めて布団から這い出た。寝起きに呑むのは常温の水がよいとも聞くが、とにかく頭をすっきりさせたい。冷蔵庫から買い置きのミネラルウォーターを取り出して、そのまま飲み干した。
「ぷっ……は、はぁー」
相当喉が渇いていたらしく、冷たい水はひどく美味しかった。寝ている間に汗でもかいたのだろう。すっきりした気持ちでカーテンを開ける。朝だというのに既に日差しが大分強い。今日も暑くなる。
中途採用された会社には車で通勤している。近辺は交通機関が充足しているので特に車にこだわる必要はないのだが、転職と同時に知人から車を譲り受けており、ある物は使いたいという性分だ。しかしその車も先日車検に出してしまっている。バスか電車かはたまた市電かと悩み、件の知人がバスの運転手を務めていたということを思い出して電車にすることにした。別に他意はない。
駅までは歩いて五分程度だ。つくづく交通の便がいいところに居を構えられたと思いながら、日差しの眩しさに目を眇める。
「それにしても暑いな……」
七月も中旬にさしかかると、日を経つごとに刻々と暑さは増してくる。いま、これだけ暑ければ来月はどれだけだろうとうんざりした。冷夏はいつ来るのだろうか。こんなにも心待ちにしているというのに。
益体もないことをつらつら考えているうちに、最寄りの駅に着いた。まだ通勤ラッシュの時刻ではないようで、人はそこまで多くはない。これなら座れなくとも、乗車中はさほど不快な思いもせずに済みそうだとほっとした。夏場の満員電車など、考えただけで気が滅入る。
外を歩いたのは五分程度だというのに、すでに額には汗が滲んでいた。通勤鞄の外ポケットに忍ばせていたハンカチで軽く拭った。改札は階段を上った先にある。階数は二階なのだが、踊り場を三度挟み、段数自体は多くて長い。汗を拭ったばかりのハンカチをちらりと見て、エレベーターを使おうかと少し悩んだ。電車内や改札口ならさすがに冷房が効いているはずだが、ここは暑い。階段を使うとなると余計に汗をかくだろう。
(だがこの程度でエレベーターを使うというのもなあ……)
それはそれでなんだか負けた気がするのだ。階段の一段目の端に突っ立ってしばらく悩む。その間にもじわりと汗が滲んでくる。後ろから来たサラリーマンが足早に脇を通り過ぎ、階段を上って行った。その後ろ姿をなんとなく目で追う。くたびれたワイシャツの背中に、汗染みができていた。
「……暑い」
おとなしくエレベーターを使うことにした。階段に背を向けて、入り口すぐのエレベーターへ向き直ると、ちょうどドアが開くところだった。中から人は降りてこない。ささやかながらも得した気分で乗り込む。冷房が効いているのか、ひんやりとしていた。他に乗る人はいないか見回すが、先ほどのサラリーマンを最後に人気は全くなかった。
(確かに時間は早めだが、平日の朝はこんなに人が少ないもんなのか……?)
内心首を傾げる。越してきてからこの駅を朝の通勤に使うのは初めてで、これが常なのかどうかはわからないが、あまりにも人がいない。学生時代は電車通学で、毎朝すし詰め状態だった。そのため電車での移動はつらいという認識が根強く残っており、だから通勤には車を使おうと固く決意していたのだし、今日は電車にしようと思い立ったのも本当に思い付きでしかなかったのだが。
(もしかしたら大体の人間はバスか市電に集中しているのかもしれない、か)
不思議に思いつつも、電車がすいているのならむしろ喜ばしいと思い直した。ふと首筋に手をやると、汗がひいてほのかにひんやり湿っていた。
エレベーターは音もなくのぼっていく。戸の向こう側は暗く、反射して自分の顔が映っていた。
(顔色が悪いな)
他人事のように思う。別段体調は悪くないのだが、確かに昨晩は暑くて寝苦しかった。寝たつもりでも体はあまり休まらなかったのだろう。取り立てて気になりはしないが、最近面倒を見ている部下が何かしら言ってきそうだなとは思う。お世辞にも仕事ができるとは言えない部下だが、こと対人に関しては細やかな心配りをする。押しつけがましくない距離感で、心配のまなざしを向けられるかと思うと、不愉快ではないのだがどうにも対応に困る。
そもそも、なぜ転勤したばかりの自分にいきなり部下ができて、あまつ教育係などに収まっているのかがいまだにわからない。何かおかしくないだろうか。文句を言っても仕方ないので何も言わないが。
(今日も緊張しているんだろうな)
ひどい人見知りらしい部下はそれでも最近は心を開いてきてくれているようだとは思う。はにかんだよう笑う気配をごくたまに感じる。実際に見たことはないというのがポイントだ。
ぼんやりと映る自分の顔を見つめながらそんなことを考えていると、だんだんそこに映っているのが自分なのか他人なのかわからなくなってくる。自分なのか他人なのか。眠たそうな顔の男がそこに映っている。――違う。そこに映っているのははにかんでいる顔だ。頬を染めて目を伏せている、口の端がわずかに上がって、――こういうのもゲシュタルト崩壊というのだろうか。
(……いかんな)
暑さと寝不足で思考が妙な方向に向かっている。ゆるく頭を振った。どうにもぼんやりとする。寝不足なのだと一度思ってしまえば、無性に眠くてたまらない。
(降りたらすぐに切符を買ってホームに降りよう……座れたら着くまで多少は眠れる)
乗車時間は三十分ほどだ。それだけ眠れればだいぶ違うだろう。
そう考えた瞬間、ふと違和感を感じた。
エレベーターは音もなく上がっている。
先程からずっと上っている。
――長すぎないか。
改札は二階だ。こんなにも長く上るわけがない。思い至ると、違和感はひしひしと増す。
(ああ、でも、眠い……)
眠くて仕方ない。頭の片隅でこれはおかしいと言っている自分がいるが、どうにも考えがまとまらない。瞼が重い。抗えずに目を閉じる。瞼の裏に誰かがいる。はにかんで、名前を呼ぶ――。
チン、と音を立ててエレベーターが停まった。はっと目を開けた。異常な眠気は、霧が晴れたようになくなっていた。戸の向こう側が明るい。眠たそうな自分の顔は消えて、代わりに改札に向かう人影が見えた。ドアが開いて光が差し込んだ。眩しさを感じて一瞬きゅっと瞼を閉じる。そのまま足を踏み出した。
「……えっ?」
口からこぼれた自分の間の抜けた声と、後ろで静かにドアが閉まる音が、ひどく大きく耳に響いた。それもそのはずだ。
誰もいない。
先ほどまではガラス越しに見えていた客も、清掃員も、駅員さえも、人の気配はまるでなかった。
「なんだこれ」
呆然と呟く声が誰もいない空間に溶けるように消える。
「なんだ、これ」
意味もなく繰り返した。混乱していた。
なんだこれは。人の気配がしない。いや、そもそも生き物の気配すらしない。混乱したまま、ふらふらと改札口の戸に手をかける。音もなく開いた戸は、音もなくまた閉まった。
「……」
改札にも誰もいなかった。電車を待つ人もいなければ、窓口の向こうにも駅員の姿は見えない。電光掲示板だけが次の発車時刻を表示している。乗る予定の電車が、ちょうど改札中になっていた。
「…………切符、買うか……」
そんなことをしている場合かと頭の片隅で思う。こんな異常な事態で、何を呑気な。だがどうすればいいというのか。
券売機で目的地までの切符を買い、お釣りをとる。そうしている自分を、ぼんやりと後ろから見ている。まるで奇妙な夢を見ているようなふわふわとした感覚だった。現実感がない。
――ただいま、八時十分発、××行き、普通列車が到着いたします。ご利用される方は、一番線にお越しください――
アナウンスに呼ばれるように改札を出る。ホームは一階にあるので、階段を降りていく。降りて行った先でも、やはり人影はなかった。
――列車が到着いたします。危険ですので、白線の内側まで下がってお待ちください――
踏切の音に交じりながら告げられるアナウンスの言葉に、白線の内側まで下がれという割に、その白線はほとんど消えかけているんだがと、どうでもいいことを考えた。まるで何かが麻痺したように、ぼんやりとした心地だった。こんな異常な事態なのに恐怖も感じていない。危機感というものが眠ってしまったかのようだ。
カンカンカンカンと甲高く鳴る踏切の音に交じって、ふと何か別の音が聞こえたような気がした。
(……なんだ……?)
妙に気になってゆるゆると視線を彷徨わせる。何もない。誰もいない。向こうから電車の光が段々と近づいてくるばかりだ。けれど確かに何か聞こえる。こんなところに似つかわしくない音だ。なんだ。何の音だ。目を閉じて耳を澄ませる。ざわざわと心臓が騒めいて仕方がない。なぜこんなにも、幻聴かと思うほどはっきりとしない音が気になるのかわからない。最近、本当につい最近、聞いたことがあるような――
カンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンからからからからからカンカンカンカンカンからからからからからからからからから
「……あ?」
ぱちりと目を開いた。
目の前を、大量の風車が風に吹かれていた。
自分の息をのむ音がやけに大きく耳に響く。次の瞬間、その光景をかき消すように電車が滑り込んできて、ゆるやかに減速して停まった。
慌てて辺りを見回すが、ありきたりな駅のホームの光景が広がるばかりだった。誰もいないというだけで、おかしなものは何もない。風車などどこにもない。当たり前だ。こんなところに風車などあるわけがないのだ。幻覚と片付けるのはあまりに鮮やかな光景だったとしても。
ぷしゅうと音を立ててドアが開いた。窓越しに見える車内はひどく混雑しているようだ。先ほどまでの異常な光景に唖然としていた脳が、こんなに混んでいるのなら一本ずらした方がいいだろうか、ずらした所で通勤ラッシュの時間帯であることに変わりはないだろうかといやに現実味のあることを考える。これも一種の現実逃避なのだろうか。
(そういえば)
ふらふらと電車に片足をかけ、ふと思い出す。風車。今朝、風車が夢に出てきた。鳥居の階段をひたすら上って、途中で霧が出た。夢の中の自分は無性に不気味になって、上るのをやめたのだ。踵を返し、降りきった先で、誰かが溜息をついた――
「……っ」
瞬間、鋭い警笛が頭の中で鳴り響いて思い切り後ろへ身を引いた。
おかしい。異常だ。何だこれは。
先ほどまで眠っていた危機感が叩き起こされたような勢いでがんがんと警鐘を鳴らす。
(同じじゃないか)
誰もいない鳥居。誰もいない駅のホーム。
どこまでも続く階段。奇妙に長い上りのエレベーター。
からからと鳴る風車。
霧こそはないものの、これでは今朝見た夢とあまりに同じ状況だ。
(夢の中では逃げ切れた)
途中で引き返したから。だからこそ、あの溜息は残念そうだったのだ。
――電車に乗り込んだら終わりだ。
今度こそ捕まってしまう。それは妙に説得力のある確信だった。
じりじりと後ずさる。本当は今すぐにでも背を向けて走り去りたいが、背中を向けるのが怖い。情けないとは思うが、それは本能的な恐怖だった。
電車のドアは開かれたまま沈黙している。窓越しに混雑した様子が見えたと思ったのだが、それにしては話し声も気配もなかった。早く。早く閉まってくれ。早く出発してくれ。
懇願に似た思いでドアの向こうを睨み付ける。各駅の停車時間は大体一分程度のはずなのに、ドアが閉まるまでひどく長く感じた。
不意にぷしゅうと音を立ててドアが閉まり始めた。慌ててまた数歩後ずさる。
何かしらあるかと思ったが、何事もなくドアは閉まりきり、ガタンと音を立てて動き出す。ふっと息が漏れた。乗らなくてよかった。乗らずに済んでよかった、と安堵が体中に広がった。ガタンゴトンと去っていく電車を横目に、ようやく踵を返そうとする。その時だった。
「――っ!」
去っていく電車の窓の向こう。乗車している人間が皆、無表情でこちらを見つめていた。
全身を悪寒が駆け抜け、今度こそ弾かれたように走り出した。一刻も早くここから立ち去りたい。あの目に映りたくない。それだけが強烈に頭を占めていた。全速力で階段を駆け上る。その勢いのまま改札機を飛び越えた。どうせ誰もいないんだから別に良いだろうと、頭の片隅で冷静な自分がひとりごちる。
(だめだ、これはもう……もうだめだ)
低く呻いて頭を振る。もうだめだ。ここはだめだ。この駅はだめだ。離れなければ。外に出なければ。改札を走り出て、エレベーターへ駆け寄ると、ちょうど上ってくるところだった。ドアの横の壁に背を預けて、呼吸を整える。視線は改札口から離さない。何かが追ってきてはいないだろうかと思うと、そちらから目を離すのが怖い。怖かった。叫び出さずにいられたのが信じられないほどに怖かった。
(いや……叫ぶこともできなかっただけか……)
あのまま電車に乗っていたら、一体どうなっていたのだろう。なぜあの電車はあんなにも静かだったのだろう。あの能面のような無表情でこちらを見てくる、年齢も性別もばらばらの人々はいったい何だったのだろう……。
(考えるな)
ぎゅっと目を瞑る。多分、考えたところで答えは出ないのだ。ゆっくりと息を吸って、ゆっくりと吐く。繰り返し、それだけに集中して平静になろうと努める。次第に落ち着き、次いで感じたのはひどい徒労感だった、
「早くここを出よう……」
ぽつりと呟いた。朝から異常な事態が続いたせいか、声までひどくぐったりしていた。体の緊張は解かぬまま、エレベーターが来るのをじっと待った。やけに来るのが遅い。だが確かに、先程自分が上っている間も異様に長く感じたのだから、こんなものだろう。
(……おい、待て)
ふと、違和感に気付いた。今日は違和感まみれの日だと、脳内で冷静な自分が茶々を入れる。
(ここには誰もいない。ホームにも、改札にも、俺しかいなかった)
いま、この上ってくるエレベーターに乗っているのは何だ。
ぞわぞわと、本日何回目になるかもわからない悪寒が背筋を舐めた。普通に考えれば駅の利用客だろう。だがこの状況でその「普通」が適用されるとは思えない。
(……エレベーターに乗ったら、逃げ場がない)
閉鎖された空間で、何かあったら。視線は改札へ向けたまま、ゆっくりと壁から背を離す。
エレベーターはまだ着かない。じりじりと距離を取る。視線は改札から離せない。けれど意識は後ろに集中させている。
エレベーターはまだ着かない。改札から何か来たらどうしたらいい。ドアが開いたらどうしたらいい。もはや「エレベーターに乗って降りる」という選択は頭から消し飛んでいた。
エレベーターはまだ着かない。逃げ道はどこだ。エレベータ―が使えないとなれば、残りは階段しかない。けれどその階段がまともである保証はない。
エレベーターはまだ着かない。どうしたらいい、どうしたら逃げられる。ぐるぐると考えて、けれどもちっともまとまらない。エレベーターからだいぶ距離はとった。そこから何が降りてくるのだろう。
後ろでチン、と間の抜けたような音が聞こえた。
エレベーターが到着した。
「……っ!」
ドアが開く前に、階段に向かって走り出した。全速力だ。何が乗っていたのか確かめたくなどなかった。絶対に振り返るものかと歯を食いしばる。改札からも目を離し、前だけを見つめて走った、はずだった。
「え」
見えない手に頭を掴まれた、としか言いようがない。そこに自分の意思はなく、次の瞬間、操られるようにくるりと頭ごと後ろを振り返っていた。何が起こったのか理解が追い付かないまま、それは目に入ってきた。
磯巾着。
開かれたエレベーターのドアから、白い磯巾着がうねるように手を伸ばしていた。
(なんだあれは)
磯巾着、のように見える。だがそれにしては何かおかしい。いや、そもそもエレベーターから磯巾着が出てくるというのがそもそもおかしいのだが、いま問題はそこにはない。目を凝らす。あれは何だ。磯巾着ではない――
「……人の……腕……?」
白い、血の気の引いた色の腕。それが何十本も固まってこちらにその指先を向けていた。それがまるで磯巾着のように見えているのだ。
「――ぅぐっ、」
生理的な嫌悪感で吐き気を催し、慌てて掌で口をふさいだ。手招かれている。呼ばれている。ずるずると床を、壁を這う音が聞こえた。ゆっくりと、近づいてきているのだ。なんだこれは。なんなんだこれは。体から力が抜けて、がくりと床に膝をついた。
いったい俺が何をしたというんだ。
唐突に、胃の腑を焼くような怒りを覚えた。
「いい加減にしろ!」
そしてようやく、目が覚めた。
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