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母の臨終
久しぶりに母の夢を見た。
病院のベッドで寝ている母に「姉ちゃんも来てるよ」と教えたら 、それは嬉しそうな顔をして俺もとても幸せな気持ちになって目が覚めた。
母が亡くなってしばらく経つ。
死に目に間に合わなかった負い目からか、俺は何度も母の夢を見た。 しかし夢の中の母はいつ見ても寂しそうな顔をしていて、呼び掛けても決まって俺を見ていない。
母が亡くなった日、俺は姉とサエコさんと3人で病院の母を見舞いに来ていた。夜通し母を看ていた源ちゃんは俺たちが来たことで安心し、仮眠を取るため入れ違いで一時帰宅した。病室に入る前、俺たちは看護師に声をかけられた。
「お母様はこれから一週間が山です。今から言う必要な備品を下の売店で買ってきてください」
俺も姉もサエコさんでさえ、人の臨終に立ち会うのは初めてだった。
正直実感もなく麻酔と意識の混濁でうとうとしながら話す母を見ても、 またどこかで持ち直すのではないかと根拠もなく思ってしまう。
今思えば、昔よく見たドラマなんかでは主人公が臨終に間に合わないことがなかったからだろう。
本当にバカみたいな話だが、間違いなく臨終には間に合うものだと3人とも思い込んでいたのだ。
更に俺達は源ちゃんとの約束で心の弱い母には今の容態が厳しいことを隠すように言われていた。
涙を溜めながら「お母さん死んじゃうの?」と子供のように問いかける母に、俺は「大丈夫だよ」と白々しい言葉をかけることしかできなかった。
姉が遠方からの帰省疲れで機嫌の悪い一歳の長男 たいちゃんを枕元に引き寄せると、母は突然困惑したように声を震わせた。
「何だっけ……名前が、思い出せないの。お母さんこの子がすごく可愛かったのは覚えてるのよ。どうしてかしら」
脳はその役目を終えようとする時、新しい記憶から閉じてゆくのだそうだ。 たいちゃんは昨年生まれたばかりだったから、母の今際の脳はあれほど何回も呼んだ初孫のたいちゃんの名前をいち早く奪い去っていたのだった。
「……何言ってんの。たいちゃんでしょ……」
俺はそれだけ言って思わず病室を出てしまった。もし俺の名前まで忘れていたらとても冷静でいられる自信がなかったからだ。
姉とサエコさんはそれからも気丈に淡々と話をしている。ふたりはどうしてあんなに強いのだろう。
非常階段で嗚咽を漏らしながら座り込んでしまった俺は、ただただ自分が情けなくて泣いた。
あれ程愉しそうに生きていた母にあんな哀しい顔をさせたまま、なにも出来ない自分の存在が、あまりにも耐え難かった。
しばらくの間俺だけが逃げてしまった気まずさで病室に戻れずにいると、親戚のおばさんが見舞いに訪れた。
同じタイミングでたいちゃんもぐずりだし、俺たちは一度お昼を取るため病室を離れることに決めた。
正直その時俺は心底ほっとしてしまっていた。母に笑って嘘をつく芝居はとても続けられそうになかったからだ。
俺はそれほどに弱かった。
「これから一週間、こんつめていたら、たいちゃんも疲れちゃうし……もうお昼になるからね」
一週間
看護婦に言われたこのワードはサエコさんにとっても、俺達と母に与えられた猶予のように聞こえてしまっていた。
サエコさん はそう言うと母の耳元で何か話してニッコリと手を振った。
母は涙を目尻に浮かべて「帰るの?」と言い、俺は全力で作り笑いをしながら「またすぐ来るよ」と言って病室を後にした。
そしてそれは、母と俺の最後の会話になった。
次に病室に駆けつけた時には、叔母さんが泣きながら母の名前を呼んでいた。
枕元に立つ主治医の先生がちらりと俺達の到着を確認すると、腕時計に目をやって静かに告げた。
「○時○分、ご臨終です」
それは、先生の逝く者と残される者に対する憐憫から派生する茶番であることは誰の目にも明らかだったけれど、先に戻っていた源ちゃんだけは「サエコらが間に合ってぇ、良がったなぁ」と言って、もう既に幾分か前から目を閉じていたであろう母を何度も何度も撫でたのだった。
久しぶりに母の夢を見た前日、俺は遠方に住む姉と電話で話をしていた。
未曾有の台風が近付いていたその日、お互いの地域の様子を確認する為にかけた電話だったが、サエコさんも途中から割り込んで他愛もない話しに花が咲き、俺達は笑いながら電話を切った。
その後姉は源ちゃんにも久々に電話して、喜んだ源ちゃんはそのまま来年の母の法事の日程まで組んだのだった。
大きな台風は、謀らずもバラバラに住む俺達家族を巻き込んでひとつにした。
幸せのタネはまさかと思う出来事にさえも潜んでいるようだ。
恐れていた大型台風は、夜もすがら俺達の街を脅かしながら、気付けば夜半過ぎ、北の空へと大股で駆け抜けていった。
明け方ようやく眠りに就いて、初めて母が微笑む夢を見た朝。
その空はどこまでも澄みきっていて、不思議なくらいに青かった。
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