Scene.3

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Scene.3

 そのラブホテルは、僕が生まれて初めて女の子を誘った場所だった。だからどうだということはないのだけれど、ときどき利用していて馴染みがあったし、その隔離病棟のように滅菌されたような外観が気に入っていた。こういう状況では主観的印象で物事を決める方がより正解に近いのではないかと思ったのだ。何が正解なのかは分からないし、ベロも分かっているかどうか怪しいところではあるけれど。  ラブホテルの駐車場は空いていた。こんな真っ昼間からセックスに勤しむのは、暇を持てあました大学生くらいだろう。あるいは世界の果てへと行こうとする、僕たちのような人間かのいずれかだ。やたらぴかぴかの(おそらく買ったばかりの)軽自動車が一台、ショーケースの中の子犬のように行儀よく白線に納まっていた。僕はその横にマセラティを停めた。  エンジンを切り、ベロの顔を見た。ゆったりとした姿勢とは裏腹に、下まぶたがわずかに痙攣していた。 「まだ間に合うよ」 「なんですって?」 「引き返すなら今のうちってこと」 「?」ベロは僕を睨んだ。 「どうして引き返さなきゃいけないの? 私たちは世界の果てに行かなきゃならないのよ」 「そのためにはこのホテルで僕と寝る必要がある」 「そうよ。このホテルで、あなたと寝る、必要があるの」ベロは一語一語区切りながら、それぞれに楔を打ち込むように力強く頷いた。そして乱暴に助手席のドアを開けた。 「行きましょう。時間が惜しいわ」  ずんずんと入口に向かう彼女の後を追う。そのとき僕は後部座席に放り込んだ食料品を思い出した。あの中にはオイルサーディンの缶詰やインスタントコーヒーの粉の他に、ソーセージやチーズもあった。世界の果てに辿り着くころには、それらはかぐわしき香りと共に食品としての意味を失っていることだろう。そして僕は未だわずかに疼く指の痛みを思った。  ベロに追いつき、自動ドアをくぐる。フロントはどこにでも置いてあるような二人掛けのソファと、どこにでもあるような観葉植物が置かれているだけの簡素なつくりだ。それらはいつ訪れても、初めて利用したときとまったく変わらない位置でそこにある。受付はカーテンがかかっていて、そこから長袖シャツに包まれた左腕が伸び、机の上に横たわっている。この光景も初めて入ったときから変わらない。彼はいつも左腕をカーテンの下から覗かせている。顔は一度も見たことがない。ひょっとすると彼は左腕だけしかない存在なのかもしれない。来客の気配を感じとり、左腕はぴくりと反応した。 「いらっしゃいませ」左腕(彼をこう呼ぶことにする)は丁寧な口調で僕たちを迎えた。『魔笛』のパパゲーノでも演らせたら最高だろうと思うほどの美しいバリトンだ。 「休憩ですか、宿泊ですか」 「休憩よ。大人ふたり」  ベロが言った。まるで映画でも観に来たみたいだ。 「休憩、大人ふたりでございますね」左腕は律儀に復唱した。 「お時間はいかがなさいますか」 「60分」 「60分ですね。かしこまりました。お部屋はどちらになさいますか」  左腕はなめらかに動き、机の上のパネルを示した。部屋の空き状況の一覧だった。ほとんどが空きのようだったが、ベロはろくにそれを見ずに言った。 「あなたが選んでちょうだい」 「わたくしが、でございますか」  左腕は明らかに困惑した声を出した。五本の指が猫のように爪先立った。 「そうよ。あなたが選んだ部屋にするわ。それが私たちの入るべき部屋なの」  ベロはきっぱりと言った。左腕は立てた爪先をそのままに沈黙した。厄介な客と思われ警察でも呼ばれると面倒になる。僕は助け舟を出した。 「すまない、いつも同じ部屋を選んじゃうから、たまには趣向を変えてみようと思ってね。面倒かけるけど、頼むから付き合ってよ」 「はあ、そういうことでしたら」左腕は爪先から力を抜いた。そしてパネル上の一点を指差した。 「403号室をおすすめします」 「そこは何か特別な部屋なのかい?」 「いいえ、他の部屋と変わりません。空調が効き、ベッドがあり、浴室がある、ごくごく普通のお部屋でございます。ですがそこは、わたくしがこのホテルに来て最初に受付をしたお客様が休憩されたお部屋でございます。意味合いをつけるのでしたら、403号室はうってつけかと思います」 「わかった。そこにしよう」 「かしこまりました」  左腕は一度奥に引っ込み、再び現れたときには指に『403』とタグのついた鍵をぶら下げていた。ベロはそれをうやうやしく両手のひらで受け取った。 「ありがとう」 「ごゆっくり」  左腕は再び机の上に横たわった。エレベーターを待つ間、指先はずっとこちらに向けられていた。まるで獲物の動きを観察するのように。
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