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僕はよろめきながら、それでも走って店を出た。スマホで電話をかけて、もう一度ハルにつなぐ。
「ハル!」
『何!』
──あれ、何を言うんだっけ。
「………………」
『おい、どうした……ミズキ?』
頭が真っ白になる。何を言えば救えるんだっけ。電話をするだけで良いんだっけ。
「…………」
『……あ、ナミ!』
ハルの妹の声がする。
『ナミ、おいで。今から帰るぞ。……ミズキ?』
「え?」
妹は助かった? これでいいの?
「もう、大丈夫?」
『ああ、これから帰るよ』
「帰り道、気をつけて……」
そう言って電話を切る。何か言っていたが、聞き取れなかった。
そして、母さんからか電話がかってきた。時刻は16時52分、昨日より3分遅い……!
「母さん」
『買い物終わった?』
「今どこ?」
『市ビルの前よ。もうすぐ横断歩道を渡るわ』
ダメ。その横断歩道を、母さんが渡ったら——。
「そこで止まって! 僕が迎えに行くから、動かないで!!」
『なに? あなた、様子が変よ。どうかしたの?』
「いいから!!」
『止まれって言われても、すぐそこまで来てるし。あ、ほら』
走っていると、道路の向こう側に大きなビルが見える。その足元で、母さんの姿がはっきりと視認できた。手を振っている。歩行者信号が赤で点滅して、青になった。母さんが横断歩道を渡り始める。僕も急いで横断歩道へ踏み出した。
「戻れ!!」
喉がはち切れるくらい叫んだ。だが母さんは険しい顔をして、杖を突きながらも、急いで僕の方へ向かう。母さん、ともう一度叫んだ。だがその声は、誰の耳にも届かなかった。それよりも大きなブレーキの悲鳴が、僕らの耳を突き刺したから。
黒い車が恐ろしい魔物を載せて叫んでいる。このまま母さんと僕が交わる場所に向かっている。母さんは驚いて足を止めた。僕は止まらず母さんの元へ走る。このトラックは間違いなく母さんをはねる。母さんをこっちに引っ張るか、一緒に向こうへ行かないとまずい。
音が大きくなる。もう少し行けば、母さんの手を掴める。そうすれば、きっと逃げられる——その矢先、ふと、魔物に名前を呼ばれた気がした。
思わず目を向ける。その時気付いた。車は僕の方へ来ていたことに。
母さんが叫んでいる。 全てが遅く見える。 体が動かない。
どうして? 僕が死ぬことは今まで全くなかったのに。
間に合わなかったから? 今日で、僕が間違えてしまったから?
「……あ」
終わる。
魔物が大口を開けて、そのまま僕を——。
「危ないな」
場違いな、落ち着いた声。
魔物の動きが止まった。何かが僕の腕をつかんで、そのまま前へと引っ張られる。
そして横断歩道を渡り終えた。
何かが振り返って、僕の手を包む。身を乗り出している。黒くて、ごわごわしている。
「よくやった。ここまで二十日間、大変なこともあっただろう。おばさんが目の前ではねられたことだってあったはずだ。それでもお前は同じ日々を繰り返すことを選んだ。母親と親友の家族を守る選択をし続けた。お前の度胸と根性は誰よりも優れている。俺は幸せ者だよ、こんな人を親友に持てたなんて」
?
「……ミズキ? 俺の声が聞こえるか?」
「ミズキ?」
「──あ」
「あ?」
「うあああああああああああああ!!!!!!」
我に返って、後ずさった。足がもつれてしりもちをつく。
「あ、あ……」
「落ち着いて。俺が誰だかわかるな?」
僕の手に自分の手を重ねて、穏やかな声で話してくれる。でも脳が追い付かない。視界が歪んでいる。君は誰なの? 今何が起きているの?
「まあ、最悪分からなくてもいい。お前は今の交通事故みたいに、俺らのミスに巻き込まれただけなんだから」
「あ、え……」
「お前には何の罪もない。しいて言うなら、だた運が悪かっただけだ」
だんだんと、歪んだ視界が戻ってきた。真っ黒で塗りつぶされていた顔が見えるようになってきた。
「死神である俺達のミスだ。本当ならここで、お前とは全く関係のない人を三人ほど狩るつもりだった。それが——」
ああ、その顔。その微笑み。その声。
「……ハ」
「俺の部下がミスをして、お前の母さんを殺してしまった。時間を巻き戻してやり直しをするつもりだったが——その中で、妙な動きをする人間がいた」
「ル」
名前を口に出したとき、はっきりと彼の姿が目に移った。ハル。
「巻き戻すたびに行動が変化する。違う今日を繰り返してる。そしてそのうち、誰にも言われていないのに、だんだんと母親を殺さない選択肢をとるようになった。そう、ミズキ。お前だ」
ハルは僕をまっすぐ見据えてきた。
「お前は時の神の悪趣味に選ばれた……タイムリープの能力を与えられてしまったんだ。あれは回数を使いきるか、特定の運命にたどり着くまでループが終わらない、終わらせることができない。災難だったな。だが、もう終わる。これからは、もう同じ日々が繰り返されることもない。お前は自由だ」
「……」
ハルは僕を安心させるように笑った。でも、何もかもが異質だった。
いつもの学生服やラフな格好は姿を消して、代わりに黒いローブを着ていた。脇には彼より頭一つ大きな大鎌を挟んでいる。その姿は、見ているだけで不安になってくる。
それに、ハルの姿がはっきりと視認出来てから、もう一つ気付いた。
「……時間、が」
「ああ」
「止まって、るの?」
誰も、動いていない。
車も、人も、信号も、空も、何もかもが止まっていた。
「まあな。本来なら、止まった時間の中で行き来できるのは死神だけのはずなんだが……ミズキは、特例みたいだな」
ハルはそう言って、僕の手を掴んで立ち上がった。僕は引っ張られる形になって、立ち上がる。
「さて。どうせ記憶は消されるだろうが、せっかくだから見ていきな」
大鎌を地面に突き立てる。そこを中心に、紫色の丸い模様が描き出された。とても複雑で、何かを現しているような……。ハルの方を見ると、彼は銀の懐中時計を懐から出して、その針を親指で動かした。すると、周りの人々が巻き戻しや早送りのように、勝手に動いていく。母さんも動いて、横断歩道から随分離れたところに戻っていった。表情からは険しさが消えている。
「これが、本来あるべき今日の今」
そう言ってハルは銀の懐中時計を僕に見せた。時間は16時50分。多くの人が横断歩道の前に立っている。信号を待っている。例のトラックは、遠くに見える。
「お前は、この時間にはもう渡り切っているはずだ。お前が立つべき場所に、ここと同じ魔法陣がある。この紫の模様だ。そこに立てば、時間が再び動き出す。行け」
「……」
「どうした」
僕は不思議と今になって涙が溢れてきた。
「……すまなかった。ずっと一人にして」
ハルはそう言って視線を落とす。僕は涙を拭いて、ハルの頬を思いきり叩いた。
どうして僕を今まで一人にしたのか。
この状況は何なのか。
君は誰なのか。本当にハルなのか。
僕は、僕の過ごしてきた時間は、いったい何だったのか。
何もわからない。分からないことが多すぎた。でも、きっと、ハルが、ハルのせいだから、だから——。
「君が、嫌いだ」
そう言って僕は歩き出した。
模様はすぐに見つけることができた。さっさとその場に立った。
視線を感じた。振り返ることはしなかった。
そして、指鳴りが聞こえたと同時に、僕の視界は塗りつぶされた。これまでの思い出が脳裏によぎっては、その全てが、一秒一秒消えていった。
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