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「なんとも異様な光景でした。つい先ほどまで誰かが生活していた匂いがはっきりとするのに、誰もいない。キッチンでは紅茶を入れるためのお湯が沸いて間もないようで、ティーポットやカップも準備されている。リビングのソファには今しがたまで誰かが座っていたようなぬくもりを感じる。私は声を発しながら、家の中をくまなく探しました。『すみません、どなたかいらっしゃいませんか』。ですが、やはり誰もいません」
「ちょうど出かけたところだったのでは」
「その可能性もゼロではないでしょう。あの、土砂降りの中を?とは思いましたが、それだけ急ぎの要件で、慌てて出たために鍵をかけ忘れたとも考えられます。私はバスルームにあったタオルを勝手にお借りして髪や体を拭くと、ソファに座りその辺りのことを考えていました。と、そこでふとおかしなことに気が付いたのです」
「おかしなこと?」
「玄関には靴が一足もなかったのです」
「なんだ、それではやはり出かけていたのだろう。靴が無いということは履いて出かけた証拠だ」
「ええ。ですが、足跡は玄関まであった」
「一度家に入ったところで急用を思い出し、靴を脱がずにそのまま出たのだろう」
「それだとおかしいのです」
「何がおかしい」
「足跡はただ一つ、この家に向かっているものしかなかった」
「あ……」
男は彼が言わんとしていることがわかった。
「雨は降り続けています。それだと出ていくときの足跡がもう一つ出来るはずなのです」
「たしかに、そうだ」
「私は気味が悪くなってきました。足跡の主は、この家に入って忽然と姿を消したようにしか考えられません。そして、私はまるでその足跡に導かれるように――いえ、おびき寄せられたとも言えるかもしれません――この家に入ってしまった。そして……」
男は、自分がゴクリと生唾を飲み込んだことに気付く。
「それで、どうなったのだ」
中年の男は、ゆっくりと顔を動かすと、尋ねる男の目を見て口を開いた。
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