続・変身 ~G.Sの犯罪~

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続・変身 ~G.Sの犯罪~

 私は、自身が一匹の巨大な毒蟲に変わるという奇妙な夢から目を覚ました。ひどく苦しくて、悲しい夢だった。額には脂汗の、目尻には涙の痕があった。私は己の手を握ったり閉じたりしてみた。指は意のままに動いた。脚一本の挙動に四苦八苦する毒蟲ではない。安堵した頭の片隅で、  。  何者かが叫んだ。   誰だ?  そのとき、時計が六時半を打った。 「いけない、遅刻してしまう」  私は寝床を出て、身支度を整えようと制服を掴んだ――と、その感触に手が止まった。人差し指と親指でつまんで擦る。何ということはない布地だ。    。  まただ。辺りを見回すが、当然ながら私一人しかいない。薄気味悪い思いを抱えたままに家を出て、職場への道を急ぐ。私は警官だ。同僚と交替で町を巡回するのである。退屈な仕事だ。何も起こらない。腰に吊るした拳銃は仰々しいまでの重りでしかない。  路地の傍らを過ぎようとしたとき、私の急に身体は制御を失った。意思とは無関係に留まってしまったのだ。戸惑った私の耳に、    。  三たび、声が響いた。そして、    。    路地の暗がりに、何かがある。  声に曳かれるように、足はそちらへ向かった。一歩ごとに、野菜やら肉やらの腐った、ごわごわした臭いが強くなる。異様な食欲が胃の底から湧き上がり、唾が口内に溢れた。  そして私は、の前に立った。  一匹の巨大な毒蟲が、ごみ袋の陰で死んでいた。腹をねじくらせ、脚を四方八方に伸びたまま固まった姿は異形の樹木を思わせた。そして鎧のような背中には腐った林檎が一つめり込み、えもいわれぬ芳香を放っていた。  己の背中がずきりと痛んだ――瞬間、私は悟った。    。  。  おれはグレーゴル・ザムザ。布地の外交販売員。ある日巨大な毒蟲に変身し、家族に見捨てられて死んだ哀れな男。おれは人間として転生し、おれの死体を目前にしているのだ! 幾度も響いた声、それは――なぜ忘れていたのだろう――おれ自身の声だ!  己を取り戻したおれは、おもむろに吠えた。吐き出されたのは家族への怒りだった。ステッキを振るい林檎を投げつけた父。愛情は口ばかりで怯えるばかりの母。そして献身を翻し、おれを切り捨てた妹。突き動かされるように、おれは我が家へ向かって歩き出した。為すべきことは復讐だ。幸いにもおれは人間で、しかも警官だった。人目に触れても悲鳴を上げられることはない。誰の家だろうと、身分を示せばたやすく鍵を開けてくれる。  そしておれは家へと辿り着いた。懐かしき我が家。しかし違和感があった。草木の一本も変わってはいないのに。――おれは気づいた。。その事実が怒りを燃え立たせた。家族はおれを追い出し、新しい幸せの中に生きている。おれは玄関へ行くと、ドアを叩いた。 「どなた?」  出て来たのは母だった。憎しみを抑え、適当に話をでっち上げる。 「すみません、近所で物盗りがありまして。少々お時間よろしいでしょうか?」  家の中に入ると、おれの怒りは抑え難いものとなった。外とは違い、内には明確な変化があったのだ。壁が塗り替えられている。家具が新調されている。借金まみれでおれに頼らねば生きていけなかったこの家が、過去を亡き者にしようと変身しているのだ。怒りが()()られ肺腑を締め上げる。薄汚い毒蟲はどっちだ? お前たちのほうじゃないか! 「あなた、お巡りさんが訊きたいことがあるんですって」  父の顔を見た瞬間、背骨を激痛が貫いた。我慢の限界だった。おれは拳銃を抜くと、父を、次いで母を撃った。噴き出た血が壁に飛び散った。そうだ、おれもあんなふうに壁を汚したんだっけな。懐かしさにおれの口元は緩んだ。  どさり、と背後で音がした。振り返ると、床にへたり込む妹の姿があった。青ざめた顔を見ていると、残虐で愉快なひらめきが舞い降りた。おれは歯を震わせている妹に近寄ると、その身体を優しく抱きしめた。 「ただいま、愛しいグレーテ。長く留守にしちまったね。久しぶりに、お前のヴァイオリンが聴きたいな。弾いておくれよ、おれだけのために」               ***  しばらくして、銃声を訊きつけた隣人たちがザムザ家の玄関に集ってきた。中から何か音が聞こえる。一人が手斧でドアの鍵を壊し、一同は恐る恐る中に入った。音は軋み震えるヴァイオリンの調べだった。バッハの無伴奏パルティータ第1番。隣人たちは居間の惨状を発見した。一対の血に濡れた足跡が居間から出て、奥へと続いている。ヴァイオリンも同じ方向から聞こえてくる。隣人たちは竦む足を奮い立たせ、その先を追った。ある部屋の前で靴は脱ぎ捨てられていた。開け放たれたドアの向こうにはと闇が詰まっている。その闇の中からすすり泣くヴァイオリンと共に、何か巨大なものが壁や床を這いずる音が響いている。
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