職歴空欄

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職歴空欄

「おや?」    採用書類をめくっていた稲生(いのう)(さとる)の手が止まった。  稲生は外食チェーン店を経営する企業の人事部係長だ。各店舗の採用書類は彼の下に送られ、チェックの後にデータベースに登録される。  その目は一枚の履歴書に留められている。  羽山(はやま)柊人(しゅうと)、19歳。写真の顔はハンサムだが、伸ばした前髪で影が差している。職歴は空欄。しかし志望動機に『接客業の経験を生かしたい』と書いていた。  引っかかった。 (なぜ職歴を書いていない?)  履歴書の不備は珍しいことではない。通勤手段や志望動機の未記入はいいほうで、写真すら貼っていないものもざらにある。羽山柊人は職歴以外の欄は埋めていたし、写真も綺麗に貼っていた。 (ここまでちゃんとしているのに)  一方で、単なる書き漏れだとも思う。店長も気付いたはずだし、面接して問題がなかったから採用したのだ。  だがそれでも気になった。鼻がひくつくような感覚。経験が何かを報せていた。 (念のため……)  稲生は内線で、勤務先の九段坂店にかけた。店長の大沢(おおさわ)啓介(けいすけ)に事情を話すと、案の定予想通りだった。 「ちゃんと確認してますから」  大沢は不機嫌を隠さない。どこにでもある現場と本部の軋轢だ。言い合うつもりはない。稲生は詫び、電話を切った。  その日の帰り、夕食がてら稲生は九段坂店に立ち寄った。すでに大沢は退社しており、学生のアルバイトが不慣れながらも真摯に接客していた。  羽山柊人の姿もあった。笑顔の絶えない、気持ちの良い接客態度である。写真のイメージとは大違いだ。 (思い過ごしか)  それから日が経ち、稲生はいつしか羽山のことを忘れていた。  3カ月後、九段坂店に経理部の検査が入った。  経理部は現金の取扱いが適切に行われているか、各部署に定期的な抜き打ち検査を行う。ちょうど大沢は備品の買い出しに行っており不在だった。  経理部は現金照合に立ち会い、そこで54円の違算があることを確認した。現金が少なかった。出勤していたアルバイトに普段の状況をヒアリングすると、違算があったときは出勤者で割り勘にしていると証言した。  社内ルールでは現金違算が発生した場合、経理部に報告書を提出することになっている。しかし書類の作成を面倒がり、数百円程度の違算は自腹で処理してしまう店舗は多い。経理部もさして驚かず、買い出しから戻ってきた大沢に口頭で指導、始末書の提出を命じた。  一件落着――のはずだった。  話はこれで終わらなかった。もっと大きな問題が持ち上がったのだ。  一人のアルバイトがこう言った。 「最近お金のズレが大きいんです。ひどいときは五千円札が足りない日もあって。こんなこと今までなかったのに……」     話は稲生の耳にも入った。 (あっ……)  そこで、忘れていた顔が脳裏に浮かび上がった。もしや。 「違算が出た日は分かるか?」  稲生は経理部の諸田(もろた)(はじめ)に訊ねた。同期入社組である。 「ああ、大沢さんが控えてた。妙なところでマメだよね」 「それをシフト表と突き合わせてみてくれ」  諸田は大沢からデータをもらい、照合表を作った。違算は2、3日に一度は起きている。そのうち、千円以上差額のある日の出勤者をチェックしていくと――。 「いつも彼がいるな」  羽山柊人。  偶然か、それとも……。  以降は、翌日の連絡会議で稲生が聞いた話だ。  現金違算と羽山の関連性が疑われ、大沢と諸田は彼の自宅を訪ねた。無論、事前連絡なしでだ。  羽山はいた。大沢の顔を見た途端、慌ててドアを閉めようとした。三人で揉み合いになり、突き飛ばされた大沢は消火栓の角に頭をぶつけて負傷した。羽山はその場から逃走したが、通報を受けた警察に発見され、傷害の容疑で逮捕された。  取り調べの中で彼は、九段坂店での現金着服を自白した。が、それだけではない。今までに勤めた複数の店舗で、同様の行為を繰り返してきたという。常習犯だったのだ。着服した金は全て遊興費に使ってしまったということだった――。  稲生は溜め息をついた。店長責任――言ってしまえばそれまでだが、全てを大沢の過失にはできないだろう。いったい誰が、あの男の狡猾な素顔を見抜けたというのか。稲生の覚えた違和感も、しょせんは勘に過ぎない。職歴が空欄だからといって、採用を取り消すことなどできない。現に羽山が働く姿を見て、疑いは消えてしまったではないか。 (無力だな……)  こういった不祥事があるたび、稲生は沈鬱に気分になるのだった。 「さてと」  いつまでも塞ぎ込んではいられない。デスクに戻り採用書類を広げる。高校生、16歳の年少者。年齢確認書類のコピーが添付されていない。原紙は店舗にあるだろうか。  稲生は内線のボタンを押した。
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