一.剣士と娘

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一.剣士と娘

 丑三つの町を、提灯を手にした小弓(こゆみ)は独り、歩いている。  小袖と袴に大小を帯びた軽装だ。ざっと紐で束ねた髪が、青く匂う初夏の夜気に揺れている。陽が落ちた後も蒸すようになってきているが、浅黒く整った面立ちには汗ひとつ浮かんでおらず、切れ長の目元がいかにも涼しげな様子だ。  辺りに人の気配はない。  時おり、梟の声がする。  空を雲の一群がゆるゆると横切っており、(あわい)から洩れる光が切れ切れに地を掃いている。そのさまを眺めて、 (今宵は、あまり見られぬか)  小弓はため息をついた。  月のことである。  しかし、足は自然とその場所へと向かっていた。町の外れにある丘は見渡すかぎりの草原で、《月見が丘》と呼ばれていた。三日に一度の夜歩きが癖になってからというもの、最後には必ず立ち寄って、月を()でた。静かな輝きと草のそよぎは、小弓の心に安らぎをもたらした。このような場所は滅多に見つかるものではないが、 (そろそろ、()つか)  小弓はこの町の人間ではない。十四の時に生国を旅立ち、諸国を経巡(へめぐ)ること十年、ひと所にはふた月も居ればいいほうだ。  それもひとえに、(かたき)討ちのためである。  その男は両親を斬り、姿をくらました。憎き敵をこの手で斬るために、小弓は一念を燃やしているのだ。  男について知り得ることは、わずかだ。人相も知れぬ。居場所も分からぬ。砂浜に一粒の米を探すようなものであろう。  それに、を思えば、当然の末路ではないのか……。 (違う!)  幾度も首をもたげるその考えを、小弓は(かぶり)を振って追い払う。 (父も母も、道半ばに逝った。その無念は晴らさねばならぬ!)  先は見えぬ。もちろん、終わりも見えぬ。しかし、 (次の町では、きっと……)  そう思いながら、呉服屋の裏手に続く土塀を回ったとき、小弓の耳に鋭く響いた声があった。 (悲鳴……!)  判じたときには、小弓の足は地を蹴っていた。  おおよその方向は見当がついている。  雲が流れ、土塀に影が走る。  別の声が聞こえた。近い。  小弓は提灯を吹き消すと、長屋の壁に身を寄せ、顔を覗かせた。  折しも月が露わになり、路上にふたつの影を浮かび上がらせた。  ひとつは男。身の丈六尺に届かんばかりで、(ひぐま)のような図体だ。右手には抜き身を提げている。  もうひとつは若い娘で、痩せぎすの身体を杖に預けている。右足首が妙な向きに捻じれているのが目を引いた。  突然、男は娘の腕をわしづかみにした。娘が悲鳴を上げる。  小弓は物陰から飛び出し、一喝した。 「何をしている!」  男は振り向いた。蓬髪(ほうはつ)を無造作に束ね、やぶ睨みの悪相は(いや)な朱色に染まっていた。風に乗って、強烈な熟柿臭(じゅくししゅう)が漂ってくる。 「何だあ、てめえ」 「その手を離せ」 「やかましい。失せろ!」  その言葉を無視し、小弓は距離を詰めた。 「おい!」  男は声を荒げるが、小弓は足を止めない。 「この野郎!」  男は娘を突き飛ばすと、小弓に向かって太刀を振った。無法だが、受ければ刀もろともに両断されそうな一撃を、小弓はわずかに半歩引いただけで(かわ)した。  男は唸った。  小弓は動かない。そのままの姿勢で、左手を鞘にやった。  親指が鯉口を切る。  憤怒もあらわに、男は再び刀を振るった。  刃が頬に触れる刹那、小弓の右手が(はし)り、銀色の光が(くう)を薙いだ。 「あっ!」  男の手から弾け飛んだ刀は宙を舞い、二間先の地面に深々と突き刺さった。きいん、という鍔鳴りも音高く、小弓の刀は鞘に戻っている。  遅れた太刀風が、さらりとその前髪を揺らした。 「消えろ」  小弓は短く言った。男は青ざめ、転びながら逃げていった。その背が闇に消えるのを見届けると、小弓は倒れたままの娘に手を差し出した。 「怪我はないか?」 「あ、ありがとうございます!」  娘は地面に頭をすりつけた。小弓は娘を起こし、身体についた土を払った。娘は杖を拾って立ち上がる。  月明かりが面を照らした。  年の頃は十七、八。顔つきにはまだあどけなさが残るが、女としてのふくらみは衣服の上からでもはっきりと窺えるほどだ。手足は痩せているが、不健康な印象はない。右足首は、やはり捻じれたままである。 「礼には及ばぬ。その足は、あの男が?」 「ああ、違います、これは生まれたときからで」 「そうか。何ゆえ、夜歩きなど?」 「お月さんを……月を見に行こうとしてたんです」 「ほう。《月見が丘》にかな?」 「はい。もう半刻もしたら、雲もどっかへ行っちまうだろうと思って」 「これは奇遇だ、私もこれから向かおうとしていたのだ」 「お侍さまも……」そう言って小弓の顔を覗き込んだ娘は、奇妙な表情を浮かべた。 「あ、あれえ、女の人だよ……」  そう、身なりこそ男ではあるが、小弓はれっきとした女なのである。剣を振るうのに振袖や帯は邪魔になる。そもそも着飾ることなどには欠片も興味のない小弓であるから、何の抵抗もない。奇異の目で見られることも、とうの昔に慣れてしまった。 「はは、よく言われる。これには」小弓は柄をぽんぽんと叩き、 「この格好のほうが都合がよいのだ」 「はあ……」 「さっきの大男は、この町の人間かね?」 「いいえ、隣町のごろつきです。ときどき酒飲みに来て、酔っぱらっちゃあ悪さをするんで、ここいらじゃあ鼻つまみもんなんです」  耳に覚えがあった。粗暴で力が強く、町方同心も手を焼いているとか。 「ふむ。今日は、月見は止しておいたほうがいいな。あの男が怒りに任せて戻って来ないとも限らぬ」 「ひい……」 「そなたの家は近いのか?」 「は、はい、すぐそこです。一町も歩けば着きます」 「そうか。ならば送って行こう」 「そんな、ご迷惑を……」 「構うことはない。そなたに何かあってからでは、今宵の行ないが無駄になってしまう。どうか、わがままを聞いておくれ」 「それなら……お願いします」 「うむ。わたしは鈴原(すずはら)小弓と申す」 「あたし、といいます」 「きら、よい名だ。さあ、参ろう。乗りなさい」  小弓は地面に屈み込むと、娘――きらに背を向けた。
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