帰還

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帰還

自分の時代に戻って,駅で,ロボットではなく,生身の人間に出会えて,心の奥がホッとした。 貯金を全て使って,一文なしになった僕には,バイト探しを始める前に,一つだけやりたいことがあった。 僕は,すぐに自転車に乗り,猛スピードで漕ぎ始めた。漕ぎながら,すれ違う人々と挨拶を交わした。知り合いにも,知らない人にも,同じように大きな声で「こんにちは!」と挨拶をした。「こんにちは!」と愛想良く挨拶を返してくれる人,何も言わずに会釈だけをしてくれる人,「誰,あの人!?」と僕を訝しげに見る人など,いろんな反応はあったが,2500年の人間たちとは異なり,全ての人が何らかの反応を見せた。見知らぬ人でも,挨拶を無視する人は,いなかった。 以前,挨拶を返してもらえることを当たり前だと思い込んでいた僕は,挨拶が苦手だった。見知らぬ人に対して,わざわざ挨拶をしたことはなかったし,街で知り合いを見かけても,逃げるようにして人混みに紛れたりして,挨拶することを避けて来たのだ。 しかし,未来へ旅をし,自分の当たり前だと決めつけていたことが決して当たり前ではないことがわかり,挨拶を返してもらえる,他人に自分の存在を認めてくれることの有り難みを知った今の僕には,人と挨拶を交わすことが新鮮で,嬉しいことに感じた。 汗だくになりながら,僕は,街を離れ,田舎道を走った。「熱い!」という感覚を久しぶりに思い出して,嬉しかった。 僕は,力が尽きて,ふんわりとした白雲が浮かぶ青空が頭上に広がり、僕の町が見渡せる坂の上に自転車をとめ,汗だくになったシャツを脱ぎ捨てて,草の上で寝転がり,久しぶりに空を感動しながら,ゆっくりと眺めた。 「きっと,これが平和なのだ。」 と僕は,考えた。 僕は,これまで,自分の世界を平和だと感じたことは,なかった。世界のあちこちで,戦争や紛争は普通に起きるし,犯罪も後を経たないし,戦争まで発展しなくても,日常生活はちょっとした争いで溢れている。しかし,戦争や争いのない世界を見て来た僕には,戦争があるかないかという尺度で,平和かどうか判断するのは,間違っているように感じる。 2500年の人間たちは,熱いという感覚も,寒いという感覚も知らない。知っているのは,ぬるさだけだ。同じく,悲しみは知らないから,喜びも知らないのだ。それと同様に,戦争を知らない。争うということも,知らない。だから,平和も知らないのだ。 僕は,2500年に旅をし,初めてわかったんだ。平和が成り立つためには,それと対極に立つものを知らないとダメなのだ。そして,平和は,きっと,戦争がない状態ではなく,心が満たされた状態なのだろうと。人によって,その定義は異なるだろう。 熱いと寒いがあるのは,平和なのだ。優しくしてくれる人と意地悪をしてくる人がいるのは,平和なのだ。春夏秋冬があるのは,平和なのだ。泣きたいような辛いことがあることと雄叫びをあげたいくらい嬉しいことがあることは,平和なのだ。人と嬉しい出会いがあることと淋しい別れがあることは,平和なのだ。汗をかくことと手が悴むことがあるのは,平和なのだ。僕を包み込むこの世界の全て,この宇宙の全て,これが,きっと,僕にとって平和というものなのだ。 アノハさんから,僕に返事が届くことはない。僕よりも,古い時代に生まれたアノハさんには,僕に返事を書いて,送るのは,無理だ。最初の手紙が届いたのは,きっと何かの手違い,宇宙の働きの悪戯によるものだったに違いない。これは,最初からわかっていることだ。返事は,求めていない。送れただけで,十分なのだ。 アノハさんのおかげで,僕は,違う時代に旅をし,自分の常識では考えられないようなことを沢山見て,自分の時代の良さがわかった。自分が夢見る、自分なりの平和というものを知ることが出来た。そして,自分が,命が尽きるまでの残りの生涯を尽くしても,辿り着くことができないほど遠く離れているアノハさんの手紙を読み,励ましの手紙を書き,届けられた。 たったそれだけのことのために,これまでの貯金を全て浪費し,危険な旅をするのは,浅はかで,あほらしいと貶す(けな)人もいるだろう。 しかし,僕は,それでいい。アノハさんと手紙を通して心を通い合わせることができ,ここまで満たされたのだから。何を言われようと平気なのだ。 ちなみに,僕がアノハさんに送った手紙の内容は,以下の通りである。 「アノハさんへ 知らない僕から手紙がいきなり届いて,大変びっくりされていると思います。僕も,アノハさんから手紙が届いて,びっくりしました。でも、嬉しかったです。 アノハさんは,戦争で大事な人を亡くして,辛い思いをされていますね。僕は,2200年の地球で暮らす若者です。戦争というものは,知りません。でも,大事な人を亡くす気持ちなら,わかります。 僕が7歳の時に,病気で父親を亡くしました。父が亡くなった時は,僕も,最初途方に暮れ,しばらく何をする気にもなれずにただ戸惑っていました。しかし,今は,元気です。時間はかかりましたが,僕と母は,また歩き出せました。 だから,アノハさんも,すぐには難しいでしょうけれど,きっとまた元気になり、人生が楽しめるようになると思います。頑張ってください! 最後に,訊きたいことが一つあります。そちらの空は,何色ですか?」 僕は,地球の夏の青空を見上げながら,思った。アノハさんは,今何をしているのだろう?何を見ているのだろう?誰と一緒にいるのだろう? 二度と言葉を交わすことが許されないアノハさんとの不思議な一期一会のご縁に感謝し,また自転車に乗った。 これからしばらくは,自転車操業の生活になりそうだが,僕は,お金には代えられないものをもらったから,抜け出せるまで,ひたすら漕ぎ続けようと思うのだ,アノハさんと一緒に。
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