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どういうことだ。
私はひとりで声が枯れるまで泣き喚きたかっただけなのに。
今の今まで嗚咽に刺激されて頂点近くまで昂った悲しみも、涙腺の奥で出番を待っていた滂沱の涙でさえ、目の前の男のせいですっかり引っ込んでしまった。
クリスマスの夜10時過ぎ、誰もいない河川敷のグラウンド、粗末なトタン屋根と壁に囲まれた、三塁側のベンチ。
私はここで、一時間ほど前に訃報が届いたばかりの、親友だった朋花のことを想いながらひとりで泣くはずだった。
数時間の残業をこなし、日課となっている病院長の親族へのリハビリの最中に訃報を受けた私は、赤や緑に賑わう商店街や磁石のように離れない恋人たちの横を素通りし、このベンチに座ってひと呼吸おいてから我慢していた感情を噴出させるつもりでずっと涙目のまま歩いてきたのに。
それがなんだ、この有様は。
どうしてさっきまで私がリハビリを施していた、数年間も意識不明のまま眠り続けていた男が目の前で不可解な表情を浮かべているのだ。
しかも普通に立っていてくれるだけなら、神経質そうだけど目鼻立ちの整った、眼鏡が似合うイケメンだな、なんて少しは思えるのに。
何でこいつの身体はちょっと透けているんだ!
人間というものはにわかには受け入れられない光景を目にすると、そのときの思考や感情が一時停止するということはよく理解した。
あとはこの光景に合理的な説明が出来れば、私はまたさっきのように泣き喚くことができるはずだ。
いや、出来るものかそんなこと。
人前で感情をむき出しにするなんて、強がりの私がいちばん苦手なことじゃないか。
とにかくだ。
こいつが、この院長の甥にあたる氷上柳太という男が「何でこんなに泣いてんだ?」と無遠慮に声をかけてきたのはついさっきのことだ。
そのせいでこちらは感情のベクトルを強引に曲げられて、鯉のように口を開け閉めすることしか出来なくなっているのだ。
それに加えて私はあまりの驚きにベンチから転げ落ち、20デニールのストッキングの下に、よりにもよって純白のパンツを履いてしまっていることを月明かりの下にさらけ出してしまっているではないか。
なんで私がこんな目に遭っている?
とりあえず私は、理不尽な状況下に置かれていることを理由に大声で叫んでみることにした。
しかしそれより先に声を出したのは、幽霊だった。
「おい」
「ひゃい!」
思わず、間抜けな声が喉から飛び出す。
「何だよ、ひゃいって。まあいい、まずはあんた誰だ? なんで俺の部屋にいた? そんで、どうして俺の姿が見えるんだ?」
明らかに年下の男からの横柄な質問にも、頭はバカ正直にすらすらと喉から答えを転げ出させる。
「私は、は、花村心。理学療法士、です。病院長に頼まれて、あのっ、あなたのリハビリをして……いました」
そこで言葉を切ると、柳太は分かりやすいため息をひとつついた。
「リハビリ……なるほどね、だから俺が覚めてるときに見たことがないのか」
それから柳太は私をじろりと睨みつける。
「で、どうして俺が見える? 今まで誰も俺に気づかなかったのに」
そんなことが分かれば苦労はしない、と答えかけたが、ふと思い当たることがあった私は恐る恐るそれを口にした。
「は、はっきりとは分からない。でも、あの、施術のためにあなたの身体にふ、触れてきたからかもしれない、です」
私はこの2年ほど柳太に関節の曲げ伸ばしと筋力を維持するための施術をしてきたが、とある施術のときに私の意識が薄れる瞬間があった。
そのときは決まって男性の切なそうな声が頭に響いていたのだが、それはいま聞こえている柳太の声と同じものだったと思う。
「股関節の施術をしているとき、あ、あなたの声が聞こえた気が……」
そこまで口にしたとき、柳太は少し強めに、もういい、と遮って横を向いた。
それからしばらく黙っていた柳太は、不意に別の質問を投げてよこす。
「あんた今日、辛いことがあったよな? 誰か大切な人が亡くなった……違うか?」
私は驚いて顔を上げた。
「どうして? なんでそれを?」
柳太の言葉で朋花のはにかんだ笑顔が鮮明に甦り、鳴りを潜めていた感情が一気に防波堤に襲い掛かる。
「親友が死んじゃったの! 私と同じ施設で育って、ずっと病気と闘ってて、それでっ……」
朋花への想いと罪悪感が私の言葉を加速させる。
「私と、同じような境遇でっ、たったひとりの友達っ、だったの! 本当に大好き、大好きだったのにいっ!」
私はこともなく防波堤を越えてしまった涙に構わず、ただ感情の赴くまま言葉を吐き出した。
「それなのにっ! 朋花が入院してるとき、私がっ、私が余計なことを言ったせいでケンカ別れしたの! 朋花は、私のことを嫌いなまま死んじゃったのよ! ごめんって言えないまま、もう私は朋花に謝れないのよ! ねえ、この気持ちが分かる?」
私は、柳太がどうして朋花を亡くしたことを知っているのかを尋ねるより、処理しきれない感情を表に出すことを優先している自分に気づいた。
押さえ込んでいた感情に火のついた私はベンチに突っ伏したまま、それからしばらく声を枯らして泣き続けた。
不思議なことに目の前にいるのが幽霊でも、自分の声が届く相手にやり場のない感情をぶつけることで、少しずつ悲しみに凝り固まった心が解れていくのが分かった。
私はこんな普通ではない状況下で、どこか幸せを感じていた。
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