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2010年、春。 朝六時、Tシャツと短パンに着替(きが)えて階下に行くと、ゴキブリより大きなコオロギが()ねていた。ベージュ色の絨毯(じゅうたん)の上。まただ、一匹二匹じゃない。二十畳のリビングと十畳のダイニング合わせて二十匹超。みぞおちの奥から怒りとも恐怖ともつかない感情がこみ上げ、叫び出したいのを必死に(こら)える。エアコンの冷房を入れ、ゴミ箱の片隅(かたすみ)に置いてあるハエ(たた)きをつかむや、手当たり次第に玄関のほうへ追い立てていく。  華菜(はな)の家は南部ベトナムのリゾート地にあって、建物だけで百坪、庭は三百坪の豪邸だ。街でサンソンと言えば街ではビバリーヒルズばりの高級住宅地で、庶民の(あこが)れエリア。たしかにすばらしく広い洋館だし、鉄条網のついた高壁の入り口には常時三人のガードマン、通いのメイドが一人、修繕(しゅうぜん)担当の人足だって十人は(くだ)らない。 そんな豪華(ごうか)な借り上げ社宅、文句なんて言っちゃだめよ、多少古くて建付(たてつけ)が悪くても。 我慢(がまん)しなくちゃ的なことを、国際電話をかけてくる実家の母はつらつら口にするけれど。この量と体格のコオロギ群を前にしても、まだ逃げ出さずに同じことが言えるのか。一度やってみろと華菜(はな)は思う。  贅沢(ぜいたく)がしたいから良介(りょうすけ)と結婚したんじゃない。好きで調査会社の仕事を()めたわけでも、日本人世帯がほとんどいない、ホーチミンまで車で三時間もかかるこんな田舎街に、三歳の娘連れで住んでいるわけでもない。  何年も夫婦別居しながら幼い娘を保育園に(あず)けて日本で一人働くより、家族一緒のほうがいいと思った。だからここに来ただけだ。だいたい華菜(はな)は帰国子女なのだ。小中で六年もドイツに住んでいたのに、今更(いまさら)外国の駐在(ちゅうざい)生活に(あこが)れなんてあるわけがない。
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