第8話 秘書のため息《社長視点》

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第8話 秘書のため息《社長視点》

直真(なおさだ)帰るの?」 「ああ」  ベッドから、起き上がり、服を着た。 疲れている時に酒を飲んだせいか、体が重い。 「うちの店に通っていた銀行のお坊ちゃんが一時帰国でまた店に来ていたんだけど、貴方に相当恨みをもっているみたいだから、気を付けて」  「そうか」 恨みを持たれすぎて、それを聞いたところでなんとも思わなかった。  「ねえ、直真。貴方もそろそろ落ち着きなさいよ」 後ろから、抱き締められ、その手を乱暴に振りほどいた。 「ちょっと…!」 「どういう意味だ」 「だから、私との関係も長いでしょ?そろそろ結婚を考えてくれてもいいじゃない?」 「最初に言ったはずた」 「結婚の話を出したら、別れるって話?」 「そういうことだ。ここにはもうこない」 「ちょっと!直真!」 振り向くこともなく、部屋を出た。 タバコを吸おうとして、取り出した箱は(から)だった。 タクシーで帰る前にコンビニをのぞくと、のんきそうな顔で菓子を選ぶ木村有里(きむらゆり)がいた。 確か―――家はこの近所だったか。忘れていた。 ノーメイクでラフな格好をし、一緒にいる若い男と楽しそうに話していた。 幼い顔をしているが、整った顔をしている。 頭痛のせいか、声をかけれず、仲よさげな二人を遠くから見ていた。 信用している相手にはあんな安心しきった顔をするんだな、と思った。 多分、自分にはそんな相手は一生現れないだろう。 わかっている。 ガラス一枚の(へだ)たりが、遠いものに感じた。 コンビニには寄らずにタクシーをつかまえて乗った。 休んだはずなのに体はひどく重たかった――― ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 月曜日になり、まだ体は疲れが残っていたが、休めば仕事が滞ってしまう。 「直真様。お迎えにあがりました」 「今行く」 運転手がマンション前に待機していた。 車に乗ると、少し考えてから、言った。 「木村有里の家に寄ってくれ。迎えに行く」 「はい。直真様。それはよろしいのですが、顔色が優れませんよ」 運転手は余計なことは一切口に出したことがなかったが、珍しく声をかけてから、車を走らせた。 「平気だ」 「そうですか……」 よっぽど疲れて見えたのだろう。 木村有里の家は小さい酒屋だ。 酒屋の隣が住居部分となっている。 観光客の多いエリアのせいか、観光客相手にまあまあ儲かっているらしい。 家の中から、木村有里が運転手と出てくると、不思議そうな顔をしていた。 どうして、迎えにきたのだろうと思っているに違いない。 「おはよう。有里さん」 「すみません。なにかトラブルがありましたか?」 「とりあえず、乗ってくれるかな」 「はい」 「社長秘書という立場上、妬まれて他の社員から嫌がらせを受けると思うのですが、大丈夫ですか?」 「あ、それは。慣れているので、大丈夫です」 慣れている? 妬まれるのはなさそうだが、嫌がらせを受けることとかが? 本当に謎だな。 「世の中、そういうこと多々ありますよ。気にしたら負けですよ」 気にしろよ、とツッコミを入れたかったが、言葉を飲み込んだ。 「もし、迷惑でなければ、毎朝迎えにくるつもりだったんですが」 「いえ、結構です。秘書というより、雑務係ですし、そこまでしていただかなくても平気ですから」  即答された。 おい、少しは人の申し出を考えろよ。 「そうですか。必要なら、言ってくださいね」 「はい、ありがとうございます」 ここまで、かわされるのも珍しい。 昨日見たあの若い男によっぽど惚れているのか。 なんとなく、面白くない気持ちのまま、会社に着いたのだった。 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 「会議資料のチェックがやっと終わったな」 一週間分の資料をとりあえず、チェックした。 これをあとは頼んで、冊子にしてもらい、会議で使えばいいだけだ。 冊子にしてもらおうと、秘書室に資料を持っていくと、ふう、とため息が聞こえた。 「どうかしました?」 悲しそうな顔で振り返った。 本当にどうしたというのだろうか。 珍しいな。いつものんきそうな顔をしているというのに。 「ちょっと小耳に挟んだんですが。受付の子達を全員入れ替えしたって」 ああ、なんだ。そのことか。 「会社の顔となる受付が社員の悪口を言いふらすような人間性の持ち主では困りますからね。当然の措置ではないですか?」 「あのー、私が言うのもおかしいんですけど。やり過ぎは恨みを買って、後々、仕返しされますよ」 なに甘いこと言っているんだ。こいつ。 自分が言われたんだぞ。 しかも、足を引っ張られておいて。 よっぽどのお人好しか。 「仕返しにきたら、二度とそんなことを考えれないくらいにやってやればいいだけでしょう」 険しい顔で眉をひそめた。 今、言ったことが不満だったのだろうが。 そもそも、受付の女子社員を入れ替えたのはこいつのためだったというのに。 その本人に責められる言われはない。 「それよりも」 ぎし、と机の上に手をつき、顔を近づけた。 驚いた顔をした木村有里の両目を見据えて、微笑んだ。 「自分の身をしっかり守ってくださいよ。秘書さん」 必死に首を縦に振り、頷いていた。 少しは思い知ればいいって―――なにを? 部屋から出ると、頭痛がした。 「何をしているんだ。俺は」 思い通りにならないからといって、大人げない―――と、自分でもわかっていた。
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