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①かもしれない
午前10時13分。
専業トレーダーや個人投資家にとっては一日のメインイベントかもしれない、株式市場の前半戦を切り上げ、伸びをしながら欠伸した松蔵の耳に、ささやかなメロディが流れ込んできた。
なんだろう。
モニターからデスクへと目線を下ろす。スマホとタブレットが一台ずつあるが、それらは音を発していない。
更に耳を澄ませてピンときた。
これは、同居人の秦が使っているスマホの着信音だ。微かに壁の向こう側でループしている。
10時始業の清掃業者は完全に寝坊している時刻である。またはスマホを忘れて出勤したのか。着信音が鳴るのみで、2LDKはしんとしている。
オシャレパーマと見せかけた天然パーマをひと掻きして、松蔵はワークチェアを立った。
欧米ぶった土足の床をルームシューズでぺたぺた歩き、自室を出て隣室へ向かう。同居人のプライバシーを侵害する趣味はない。しかし秦がいきなり難聴になって寝坊している可能性も、ゼロに近いがゼロではない。ともかく確かめないと松蔵は在宅仕事に集中できない。
無精髭の浮いた顎を掻く手を下ろし、「しつれーします」と無造作にドアを開けた。
途端、なぜか乾燥わかめのようなしょっぱい香りが漂い、戸口に背を向けて立っている人影が振り返った。
「……」
「……」
松蔵は戸口で硬直している。
灰色のカーテンが半開きになった仄明るい五畳半の、少し乱れたシングルベッドの前で、松蔵を見つめ返してくる男も無言だった。
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