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山頂には、4年前に見たのとほぼ同じ光景が広がっていた。焚火の周りに集まる男たち、その奥にいるまじない師と二人の若者。スインはそちらに向かいながら、他の村から来た挑戦者たちを観察した。
一人は、筋骨隆々とした大柄な男だ。その表情からは自信すら見て取れる。この男は、自分と同じく訓練をしたのだろうか。男の太い首を見ながら、スインは思った。
もう一人の挑戦者は、それとは真逆の、体を鍛えたこともなさそうな痩せた若者だった。大量の汗をかき、がたがたと震えている。どう見ても、谷を飛び越える力量は無さそうだ。
――俺が一番に飛べればいいのに。
スインは思った。自分が成功すれば、他の二人が命を落とすことはないだろう。
だが、飛ぶ順番は『神の託宣』たるくじ引きで決められる。スインは3番手となった。
太陽が昇る。差し込んだ光が、死の谷を明るく照らす。
「さあ、死の谷に挑戦するときが参りましたぞ! 大いなる鳥となりませい!」
まじない師が叫んだ。
最初の挑戦者は、筋骨たくましい若者である。余裕ぶった表情は変わらないが、今は額にうっすらと汗をかいていた。十分に助走距離を取ると、若者は声を張り上げた。
「イソナ村のシシン! 神のご加護あれ!」
そして駆け出した。
これは駄目だ。スインは思った。体に余計な力が入っている。足が回転していない。力自慢ではあったようだが、『飛ぶ』ための訓練をしたのではなかったらしい。
スインの懸念通り、助走で十分なスピードを出せないまま、若者は谷のふちに到達してしまった。
――止まれ、やり直せ!
だが、若者はがむしゃらに飛び出した。こちらに背を向けているせいで、彼の表情が見えないことにスインは心から感謝した。
イソナ村のシシンは、手を大きく振り回しながら墜落した。
二人目の挑戦者の顛末は、さらに悲惨ものとなった。先の挑戦者の死を目の当たりにした若者は、泣いて命乞いを始めたのである。
周りの大人たちは彼をなだめすかした。だが、若者はもはや誰の言葉も受け付けなかった。諦めた男たちは、スインが見つめる前で、泣きわめく若者を谷のふちまで引きずって行った。
最後の瞬間を、スインは目をそらして見ないようにした。
いよいよスインの番だった。警戒する男たちの視線を感じながら、スインは移動を始めた。体に力が入らないような、ふわふわとした感覚が落ち着かない。今しがた立ち会った、二人の若者の最期がスインの心をかき乱していた。
早く通常の感覚を取り戻したいと思いながら、スインは死の谷に向き合った。だが、いつもは自然に浮かび上がる足跡が、この時に限っては一向に現れない。
こみ上げてきた焦りを押しつぶすように、スインは強く目をつぶった。
しかし、次にまぶたを上げたとき、そこに広がっていたのは悪意に満ちた死の谷の姿だった。
平坦にならされたと思っていた地表には、無数のくぼみや出っ張りがあり、スインの足を引っかけようと待ち構えていた。
谷のふちはまるで迫ってくるようだ。広場は狭すぎて、十分な助走距離を取れそうにない。
そして、最後の衝撃は、スインが谷の対岸を見たときにやってきた。
――知らなかった。こんなに遠いなんて!
頭からざっと血がひく感覚があり、心臓が激しく動悸し始めた。
これまでも、ずっと死の恐怖に怯えて生きてきた。だが、ここで新たにやって来た恐怖の波は、これまでのそれを遥かに上回り、スインの理性を押し流していく。
「無理だ。飛べない」
思わず漏れた言葉は、スインの口の中でなかばかき消えるほどに弱々しかった。
足が震え、腹が痛み、目の前の景色が点滅を始めた。スインはその場でくずおれそうになった。
そのとき、目の端に何かひらめくものがあった。
時間稼ぎのつもりで、スインはそちらに目を向けた。山のふもとに広がる村が見える。スインが4年間暮らしていた村だ。
立ち並ぶ小屋の合間で、何かが光った。きら、きら、と一定しないリズムで輝いている。
井戸の水が太陽の光を反射しているようだ。だが、あそこに井戸は無い。何か、別のものが……
スインの脳裏に、贈り物のペンダントを覗き込む、愛しい少女の姿が浮かんだ。
ニナだ。ニナが俺に合図を送っている。俺を励ましている。
「さあ、最後の挑戦者よ! 大いなる鳥となりませい!」
まじない師に再度呼ばわれ、スインはゆっくりと谷に向き直った。
手首を振り、足を伸ばす。まだ動悸は治まっていないが、いつもの動きをなぞることで、こわばった体がほぐれ始めるのを感じた。
暗転しかけていた視界が、明るさを取り戻す。死の谷を、今度は落ち着いて検討した。
――いつも通りやれば大丈夫。
スインは最後にそう判断した。
太陽の光が降り注ぐ大地に、淡い足跡が浮かび上がる。
スインは一つ深呼吸をした。
そしてスタートを切った。
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