大いなる鳥

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 4年に一度、選ばれた三人の若者が死の谷に挑戦する――それが、この地域で代々続く儀式だった。  死の谷を飛び越えた若者は、『大いなる鳥』となって村々に永久(とこしえ)の繁栄をもたらすという。一方、儀式を怠れば、死の谷の死者が現れて災害を引き起こすとされていた。  儀式に参加する若者の中で、実際に谷を飛び越えたものはいない。彼らは村の安泰と引き換えに捧げられる、事実上の生贄だった。4年に一度とは言え、将来を担う若者たちの死は大きな損失である。その大きさゆえに、村々は務めを怠ることの無いよう互いを監視し合い、儀式は厳格に守られてきた。  儀式に挑戦する若者を一代に一人も出せない家は、どれほど威勢があっても軽んじられる。スインを引き取った男は村の実力者だが、一人娘の他は子供に恵まれなかった。  そこで男はスインを買い取った。金に物を言わせたという者もあったが、次の儀式まで家族の一員として養うことを条件に、受け入れが認められたのである。  そういう事情を、スインは下男に混じって働くうちに知った。表向きは養子だが、しょせんは使い捨ての扱いだった。まともな教育は受けられず、有力者の子弟が招かれるような集まりに行くことも無い。村の大人たちからは見て見ぬふりをされ、子供たちからはよそ者といってあざけられた。  家の中でも、養父はスインが家人に軽々しく声をかけること、特に一人娘のニナと話すことを禁じた。  そうした環境で、10を3つほど超えたばかりの少年は消耗していった。  何より、スインの前には、常に死の谷が広がっていた。夜になると、彼は寝床の中で、一人震え続けた。いつか自分はあそこに立たされて、死なねばならないのだ。  馬商人が再び村を訪れたのは、3か月ほど後のことだった。逗留中、スインは馬の飲み水と飼い葉を運ぶ仕事を命じられた。  馬の世話は朝が早い。まだ日の明けきらない時間帯に、スインは一人起き出して厩舎に水を運んでいた。  厩舎までもうひと息というところで、一頭の仔馬を引いて歩く馬商人に出くわした。 「あのときの坊主か? うまくやってるみたいだな」  事情を知らない男に、スインは、何もかもぶちまけて恨みごとを言ってやりたかった。だが、馬も孤児も、男にとってはただの商品だ。売った先で家畜になろうが取って食われようが、知ったことではないと言われるのがオチだ。代わりにスインは言った。 「馬に散歩をさせているんですか?」  馬商人は笑った。 「いやいや、こいつは調教中でね」 「調教?」 「速く走らせるための訓練のことさ。坊主は知らないだろうが、ここから遠い国では馬を娯楽のために飼うんだ。こいつは将来、駆け競べに出るんでね」  スインは驚いた。 「馬に走り方を教えるの?」 「ただ走るんじゃない、勝つためさ。何事も若いうちが肝心。坊主も、今のうちからよく勉強しておくんだな」  そう言って、馬商人は行ってしまった。  残されたスインは、馬商人の言葉をじっくりと考え、一つの結論を出した。  その日から、スインは暇さえあれば馬商人のもとに行き、訓練の内容について尋ねるようになった。 「走る前に歩き回らせるのはなぜだい? 走り終わった後に脚を冷やすのはどうして?」  馬商人はスインを面白がって、色々と教えてやった。 「体は十分温めておかないと、怪我のもとだ。走った後は、熱を持った筋肉を冷やして休ませてやる。だが、体が冷え切っちまうのはいけない。汗をふき取ったら、ゆっくり歩かせて徐々に落ち着かせるんだ。お前、馬に興味があるのかい?」  だが、そうではなかった。馬商人から得た知識をもとに、スインは自分に『大いなる鳥』となるための訓練を施していたのである。  馬商人が村を去った後も、スインは相変わらず誰よりも早起きをした。体が温まるまで体操をし、歩き回る。その後は村の周りを走った。  訓練のことは誰にも話さなかった。儀式のための訓練など、聞いたこともない。自分の行いは神聖な儀式に対する冒涜ではないかと怖くなったこともある。だが、周囲の不条理に対する反抗心と、生き延びたいという渇望に、スインは突き動かされていた。  ある朝、スインが小屋の裏手で体を曲げ伸ばししていると、後ろから声がかかった。 「何してるの?」  振り返ると、ニナが立っていた。 「体操さ。毎日やれば、体が柔らかくなるんだ」 「へえ! どうしてそんなことしてるの?」  ニナの顔には純粋な好奇心が浮かんでいる。だが、スインとニナがまともに話したのはこれが初めてだ。家人に告げ口をされては困ると思ったスインは、答えを渋った。 「誰にも言わないって誓うか?」  できるだけ怖い顔をしたつもりだったが、ニナは何度も頷いて嬉しそうに近づいてきた。それを見ると、スインの口からするりと言葉がこぼれてしまった。 「……俺、訓練してるんだ。次の儀式で死の谷を飛び越えるために」  ニナの両目が見開かれ、口もあんぐりと開いた。 「そんなの、無理」 「無理じゃないさ! 村の人は、みんなそう言う。だけど、試した人はいないんだ。儀式のこと、考えるのも怖いから。俺には、まだ4年ある。4年後には、俺はもっと背が伸びて筋肉もついてる。体の使い方を覚えれば、きっと死の谷を飛び越えられる! 馬だって、訓練すればもっと速く走れるようになるんだ。俺にもできると思う」  気が付くと、いつも心に言い聞かせていたことが、言葉となってあふれ出していた。気恥ずかしくなったスインは口をつぐんだ。  だが、スインの熱弁を聞いた少女の瞳は輝き出していた。  それから、ニナは度々スインの練習を見に来るようになった。  ある日ニナは、ふところからひとかけのパンを差し出した。 「ニナ、こんなことしちゃ駄目だ!」  スインは顔色を変えた。ニナが自分の食事からそれを取り置いたことを察したのだ。だが、ニナはパンをスインに押し付けた。  その後、ひとかけのパンはまるごと一切れになった。焼いた肉などが挟まれていることもあった。スインも、黙ってそれを食べるようになった。  いつしか二人は、同じ目標を持つ共犯者になっていた。
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