大いなる鳥

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 年を追うごとに、スインの訓練は洗練されたものになっていった。  始めのうちは、足を鍛えることだけを考えていた。だが、助走スピードを上げようと工夫するうちに、腕の振り方が走りを左右することに気が付いた。それからは、走るときの姿勢や、体全体のバランスにも気を遣うようになった。  跳躍時の踏み切りやその体勢によって、飛距離が大きく変わることもわかった。特に踏み切り位置は重要である。前回の挑戦者たちは、あまりにも手前で踏み切ってしまうか、ぎりぎりまで踏み込まないことで体勢を崩していたのだ。  また、挑戦者の全員が谷の手前で失速していたことを、スインは思い出した。彼は、それが恐怖心によるものだと推測した。死の谷を飛び越えるためには、死の恐怖に向かって全速力で突っ込む必要がある。  それには、体の鍛錬だけでは足りないとスインは思った。  夜になると、スインは寝床の中でまぶたを閉じた。記憶に焼き付いた死の谷が、目の前に現れる。  想像の中で、スインは谷との距離をはかりながら動いた。見当を付けたところで立ち止まり、前方に集中する。  すると、目の前に、ぼうっと光る足跡が浮かび上がった。スインの足跡だ。この足跡に沿って走れば、自分のベストのリズムと歩幅で跳躍できるだろう。  スインは一つ深呼吸をして、走り出した。両足が、光る足跡を順調にたどっていく。  だが、谷が近付いてきたのを意識したとたん、次の足が足跡の先に出た。 ――まずい!  そう思ったが、もう止められなかった。最後の一歩は、想定していた踏み切り位置を大きくオーバーし、谷のへりにかかった。バランスを崩した体はたちまち失速し、スインの体は恐怖に硬直したまま虚空に放り出された……  体を大きく震わせて、スインは目を見開いた。イメージの生々しさに、心臓がどくどくと脈打っている。 「俺は死んだ……」  そう言った声はかすれていた。スインは大きくあえぐと、夜具の中でうずくまり、強く目を閉じた。このまま、眠りの中に逃げ込んでしまいたい。 ――駄目だ、駄目だ!  スインの内側で、なけなしの勇気が叫んだ。そして、スインの眼裏(まなうら)に、ニナの笑顔が浮かんだ。  スインは目を開いた。こわばる体を叱咤して、再び仰向けの姿勢になる。この恐怖に打ち勝つことは到底できない。だが、せめて慣れなければ。やがて、緊張した体からどうにか力が抜け、動悸が落ち着くと、スインは再び目を閉じた。死の谷が現れる。 ――歩幅と歩数を調節するんだ。  スインは先ほどよりも慎重に、距離をはかった。自分の両足が踏むべき位置が、再び淡い光となって浮かび上がる。  スインは深呼吸した。そして走り出した。 「ニナ」  儀式まで半月となったころ、スインはニナを呼び止めた。  1年ほど前から、ニナはスインの訓練を見に来なくなっていた。年頃になり、監視役の女たちが付いて回るようになったためだ。  スインがニナを間近で見るのは久しぶりのことだった。肩を覆う流れるような黒髪に縁どられた、優しい焦げ茶の瞳とみずみずしい頬を持つニナは美しかった。  ニナの美しさを実感すると、スインは自分のみすぼらしさを意識せずにはいられなかった。身長は期待通りに伸び、体には鍛えられた筋肉が――跳躍のためのものが――付いていた。だが、4年間死の谷だけを見て生きてきたスインは、感情を表に出すのが不得手になっていた。その上、髪はごわごわと絡まって、日焼けした肌はあちこち皮がむけている。  気後れを感じながら、スインは懐から出したものを手のひらに乗せて、ニナに差し出した。 「これは?」  ニナが近付いて、覗き込んだ。変わらない気安さに、スインは早口で答えた。 「このまえ商人が来た時に買った。小さいけど鏡だ。年頃の娘が喜ぶものだというから」  それは、小さな円盤型の鏡に、鎖を通してペンダント状にしたものだった。鏡と言っても、像がぼんやり映るだけの安物である。だが今は、降り注ぐ太陽の光を受けて、きらきらと輝いていた。その反射が、ニナの左耳の辺りを暖かく照らしていた。 「きれい……」  ニナが、スインの手のひらからペンダントを取った。一瞬触れたぬくもりに、スインは慌てて手を引っ込めた。 「ありがとう。でもどうして?」 「それは……」  ペンダントの反射光を受けてか、ニナの瞳がきらきらと輝いている。ニナに伝えたい気持ちが、口元まで出かかった。だが、スインはそれを飲み込んだ。  ニナと自分の間は、大きな亀裂で隔てられている。自分はそれを飛び越えなければならないのだ。 「スイン、」  ニナが何か言いかけたところで、ニナを呼ぶ声がした。ニナは黙ったままのスインをじっと見つめた後、その場を駆け去った。
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