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「全く、何を考えてるんだね、君は!」
副校長の怒声が朝の職員室に響き渡り、教室に向かう準備をしていた教員達は皆そちらの方にちらりと目を向けた。
副校長は眉根に深い縦皺を刻み、不自然にたるんだまぶたの奥にある目に、凄まじいまでの怒気をみなぎらせている。白目の上方に辛うじて見える黒目から伸びた視線の糸が体の隅々にじっとりと絡みつき、呼吸することさえはばかられるような気がして、大橋は知らず息を潜めていた。
「昨日の失態で少しは反省したかと思ったが……二日酔いで遅刻とは、一体どういう了見だ!」
「……す、すみませんでした」
身を縮めて頭を下げながら、大橋は掠れた声でこれだけ言うのがやっとだった。
副校長は大きなため息をつくと、口の端を引きつったように上げて、独り言のようにこんなことを呟く。
「この不況下で、よくもまあこんな失態を繰り返すな。度胸があるというか、何というか」
その言葉が耳に届くやいなや、大橋の爪先から頭頂まで悪寒が一気に走り抜けた。
始業時間のため小言は比較的短くて済んだものの、大橋は先ほどの副校長の言葉が頭について離れなかった。肩を落とし、ため息をつきつつ教室に向かう準備をしていると、誰かが大橋の背中をぽん、とたたいた。振り返ると、縦幅よりも横幅の方が大きい堂々たる体躯の女性が、苦笑混じりの笑みを浮かべている。三年の学年主任、林田だ。
「元気だしなよ、大橋君」
林田は黒縁眼鏡の奥の小さな目を糸のようにして笑うと、ちらっと副校長を見やった。
「大丈夫。あんたは試用期間の一年は何とか終わってるんだから。めったなことで首は切られないよ」
「そ、そうなんでしょうか……」
「そうだよ。だから心配しないで!」
林田はそう言うと、分厚い手のひらで大橋の背中を嫌に景気の良い音を響かせながら思い切りたたいた。思わずむせる大橋に軽く手を挙げ、林田は大股で職員室の出入り口に向かう。林田の後には、同じ三年の担任である曽我部春菜が続いていく。大橋はむせながら、曽我部の後ろ姿を上目遣いに盗み見た。
林田が曽我部に笑いながら何か言った。すると曽我部はちらっと大橋に目を向けた。くすっと、笑ったようだった。
大橋は口を開けてぼうぜんと曽我部を見やった。マンガでよく使われる「ガーン」という擬態語(?)がぴったりの心理状態だった。
曽我部はおととし採用の三年目で、今年は三年の担任をしている。肩くらいの長さのミディアムヘアがよく似合う、なかなかの美人だ。明るくはつらつとしていて、休み時間も子どもと積極的に触れ合う姿がよく見られる。ピアノが上手で仕事の飲み込みも早く、機転も利く。教員同士の間でも、「できる人」として一目置かれている。まさに教師になるべく生まれてきたような彼女に、大橋はひそかに憧れを抱いていた。
そんな彼女に笑われた。しかも、今のこの状況は、間違ってもプラス評価をくだされたものではない。馬鹿にされたか、さげすまれたか、呆れられたか……とにかく、マイナスの笑いであることに間違いはなかった。
しばらくの間大橋は口を半開きにして、曽我部が出て行った職員室の扉を見つめたきり動けなかった。
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