57人が本棚に入れています
本棚に追加
不能
もう五年、恋人がわたしの元を去ってからの年数だけ筆を握っていなかった。
目の前には裸で横たわるモデルの青年。
美しく均等のとれた身体は以前の私であれば目の色を変えて筆を走らせていた事だろう。
だが――――――筆はぴくりとも動く事はなかった。
まるで腕に鉛がつけられてしまっているかのように重く、動かす事ができない。
頭も冷えていて何の熱も感じない。
ただ裸の青年が横たわっている、それだけなのだ。
かつて自分がどういう風に筆を走らせていたのか、まったく分からなかった。
自分の中心が不能になった時よりもショックを受けた。
わたしはもう絵を描く事はできないのか……。
これは恋人を裏切って傷つけてしまったわたしへの罰なのだろうか。
モデルに謝罪し帰ってもらった。
*****
鬱々としたままリビングへ入ると、彼は昼に見た姿勢のままソファーの上で丸まって寝ていた。
聞こえてくる彼の静かな寝息。
柔らかそうな彼の髪。
思わず近寄り彼の髪に触れてみた。想像通り柔らかい。
少しだけ気持ちが和らぐ。
彼はふるふるとその長い睫毛を震わせ、目を覚ました。
そしてくわっと欠伸をしてわたしの事をじーっと見つめるとふいっと反対側に頭を向けて丸まって再び寝てしまった。
起こしてしまって嫌われてしまったかな。
これ以上嫌われてしまわないように彼に必要以上に触れる事はしてはいけない。
いつでもどこかへ行けばいいと思ったはずなのに、彼に嫌われたくないと思ってしまっていた。
最初のコメントを投稿しよう!