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 目を開けると、見慣れた部屋の天井があった。夢に見るどこまでも澄んだ青空とは、似ても似つかない。  閉められた障子の外から低い鐘の音が聞こえる。毎朝この時間に、近くの建物で打ち鳴らされる鐘の音で起床することが、習慣になりつつあった。  ゆっくりと体を起こす。体にかけていた布団が落ちると同時に、足元から金属同士のぶつかるカチカチという音が耳に届く。片足の足首と部屋の壁を繋ぐ長い鉄の鎖は、木と畳で作られたこの部屋の中では異様なほど浮いて見えた。  布団から這い出し、ぼんやりしたままそれをたたみ始めると、起床するのを待っていたように部屋の襖が開かれた。 「おはよう、ソラ。昨日はよく眠れたか」  着替えを持って現れた男は、腰まである長い黒髪を揺らし、静かに畳の上を進んでこちらへ近付いてくる。その頭、両耳の上あたりに、漆黒の立派な龍角が二本覗いていた。 「おはよ。ヴァルの用意してくれた枕がすごく良かった。ありがと」 「そうか、それは良かった。他にも何か欲しいものがあればいつでも言いなさい」  その言葉に、ソラは布団をたたんでいた手を止めて視線を落とす。 「……うーん…欲しいものっていうか…」  足首につけられた鎖を手に取る。ひやりと冷たいそれは部屋の壁と繋がれていて、ソラが部屋の外に出ることを阻害していた。 「これ、いつ外してもらえるのかなー、って」  見上げると、ソラの足首と鎖を見るヴァルは困った顔をしていて、ソラの前に座り、足首をそっと撫でた。 「…前にも話しただろう。君は世界に一人しかいない、とても珍しい龍人なんだ。君を誘拐しようとする者がいつ現れるかわからない。それを防ぐためには仕方のないことだ」 「…そっか…」  珍しい龍人、という言葉に、自分の頭へ手を伸ばす。短く整えられた蒼い髪と、自分からは見えないが同じく蒼い龍の角。確かに同じ髪や角を持った龍人には会ったことがない。もっとも、ソラが知っている龍人といえば、自分の世話をしてくれるヴァルと、部屋の窓から見える町の住人たちだけなのだが。  表情の曇ったソラに、ヴァルが笑いかける。 「もう少ししたら、自由に外を歩けるようになる。そうしたら、私がどこへでも連れて行ってやろう」 「どこでも?」 「ああ、どこでもだ」  ソラが見上げると、細められた紅い瞳と目が合った。  ヴァルは、記憶を失ってどこにも行く宛のないソラを保護してくれた。聞いた話では一人きりで森の奥に倒れていたところを、森の生態調査に訪れたヴァルが発見してくれたらしい。  部屋の外に出られないという制限はあるものの、欲しいものや必要なものは何でもヴァルが揃えてくれて、本を読んで勉強したり、窓から町を眺めて世界のことを色々教えてくれたりした。  不自由はない。むしろ無条件に住む場所や食事を与えてくれるなんて、贅沢なくらいだ。 「ねえ、じゃあ外に出るのはまだ我慢するから、外を眺めるのはいいよね?」  ヴァルが着ている衣の袖を引いて、まだ障子が閉められたままの窓を指さす。大人の姿をしていながら、無邪気な子供のように首を傾げてねだる様子に、ヴァルは小さく笑った。 「仕方ないな。着替えと朝餉を済ませたら、窓を開けよう」 「やった!」  ぱっと顔を輝かせて喜び、服を受け取って着替え始める。上機嫌で身支度を整えるソラの頭は外の世界のことでいっぱいで、その様子を見つめるヴァルの瞳が憂いを帯びていることには、到底気付けなかった。  窓を開け、高欄から眼下を見下ろすソラの後ろから、ヴァルは今日もひとつひとつ丁寧に解説を始めた。ソラたちのいる建物はこの辺りで一番背が高く、周辺の全てが見渡せる。遠いため町の様子は豆粒のような大きさにしか見えないのだが、ソラは一生懸命目を凝らした。 「敷地の中の、手前の広場で行っているのは…今日は剣術稽古だな。ああして日々鍛錬を積み、この城を守っている」 「ヴァルも剣とか、強いの?」  剣術についての話はよく聞かされるが、ヴァルが使っているところは見たことがないし、今も剣は持っていない。何の気なしに聞いたソラの言葉に、ヴァルは一瞬唖然として、おかしなものを見たように声を上げて笑った。 「ははは!……まぁ、それなりにな」  ソラには何がおかしいのか理解できなかった。そもそも、あの兵士たちは一体何から城を守っているのだろう。  再び外に目を向けて、様々な店が立ち並ぶ商店街と、そこを行き交う町の人々に目を向ける。年代も性別もバラバラだが、皆一様に黒い髪と角を持っていた。 「角が黒い人しか見たことないけど、龍人はみんな黒いの?」 「この国には黒龍しか住んでいないから、皆角も髪も黒い。だが、隣には白龍の住む『白銀の国』がある」  初めて聞いた情報にソラが勢いよく顔を上げる。 「白龍!?ってことは…白いの!?」 「そうだ。髪も角も白く、私たちとはまるで違う。…白龍に近付いてはいけない。彼らの国は敵国だからな」  眉尻を下げてそう言うヴァルの顔は、少し寂しそうに見えた。 「……戦争、してる?」 「今は休戦中だ。しかし、いつ再開してもおかしくない」  城の兵士たちが訓練している様子を見たことはあっても、本気で命を取ろうとしているところは、見たことがない。あの剣で斬られて死ぬ人がいるのかもしれないと思うと、恐ろしかった。  木で造られた欄干を握りしめる。 「戦争が始まったら…ヴァルも、戦うの…?」  いつも穏やかで優しい彼が、誰かを傷付ける可能性なんて考えたくないし、傷付けられる姿を想像するだけで怖くなる。  指の震えを抑えようと力がこもるソラの手に、上から包み込むようにヴァルの手が重ねられた。 「戦が始まれば、私は戦場に出なければならない。それでも必ず帰ってくると約束しよう」  ヴァルにそう言われても、ソラの心は晴れない。それは、初めて窓の外を見たときから気になっていることがあったからである。恐らく戦争の話に関係しているのだろうと、ソラはなんとなく気付いていた。 「…ずっと、聞きたかったことがあるんだけど」  握られているのとは逆の手で、町の一角、賑やかな通りから外れて、灯りのほとんどない通りを指で示す。そこには、薄い板と布切れを使い、およそ家とは呼べない寝床を作って生活している人々がいた。  大人もいれば子供もいる。どの人も痩せていて表情が暗く、道端で寝ている人も見える。 「あの人たちは、家がないの?」  ソラの示す先を見て、表情を固くしたヴァルは眉間に皺を寄せた。 「……この国では、もう何年も飢饉が続いている。職を失い十分に食べることのできない国民が、増え続けている。ここから見えるのはほんの一端に過ぎない」 「そんな…!」  自分が暖かい部屋で呑気に生活しているすぐ近くで、飢えに苦しんでいる人がいる。それは薄々勘付いていたが、まさかそれほど多くの人が困っているとは思いもしなかった。 「白銀の国も同じ状況だ。それ故に、食料や資源を奪い合って戦争が起こる」  他人から奪う、という手段に出るほど、この国は切羽詰まった状態らしい。人々に手を差し伸べることも、具体的な解決策を提案することもできない自分にもどかしくなる。もっとも、ヴァルですら打破できない問題に対して、保護されている立場の自分が何かできるわけはないのだけれど。  居ても立っても居られなくなり、隣に立つヴァルに抱きついた。その途端、堰を切ったように瞳から涙がポロポロとこぼれ落ちる。顔も知らない人々の話のはずが、なぜか痛いほど胸が締め付けられて悲しくて、辛かった。 「ヴァル……俺…悲しいし、怖いよ…」  理由はわからないけれど、自分のことのように貧しい人々の苦しみがありありと想像できてしまう。絶えない飢えがもたらす苦痛と、すぐそばに死という現実が横たわる恐怖。  肩を震わせながら長身の胸に顔を埋めると、ヴァルはその大きな手でソラの髪を梳いて整えるように頭を撫でた。 「ソラは誰かの痛みがわかる優しい子だな。大丈夫、君は何も悪くない」  温かい体温に包まれて、髪に優しく触れられると次第に気持ちが落ち着いてくる。 「今日はもう外はやめておきなさい。中で静かに本でも読もう。茶と菓子も用意させる」  ヴァルに肩を抱かれ、促されるまま高欄から室内へと戻る。窓が閉められる間際に後ろを振り返り、瞳に映る真っ暗な空に顔を曇らせると共に、ソラはため息をついた。  朝方に起床して夜眠りにつくまで、空は少しもその様子を変えることなく、月と星たちだけが煌々と存在を主張している。 (せめて太陽が出て青空になれば、みんな明るい気持ちになるのに…)  夢に出てくるような、どこまでも広がる清々しい青空。降り注ぐ日の光を浴びることができれば、きっと人々の心は温まり、動物も植物も生き生きとして、豊かな国が帰ってくる。  自分はあの生命力に満ちた景色を、一体どこで見たのだったか。 (……っ、…思い出せない…)  生まれた場所も、親の顔も、自分の本当の名前も、何も思い出せない。空白だらけの自分の中身。  拠り所を求めて視線を向けると、ヴァルはすぐに気付いてソラの手を取り、求めていた温もりと心の平穏を与えてくれる。  縋るようにその手を握り返すソラの後ろで、ヴァルは静かに障子を閉めた。  窓も障子も閉めていれば、ソラの世界は静かなものだった。昼食を済ませ、腹を満たした体に少しの眠気を感じつつ、机のそばに積んである本の中から適当な一冊を手に取る。  ヴァル以外にこの部屋を訪ねてくる者はいない。そのヴァルも、この国では忙しい立場にあるようで、世話をしてくれる時間以外は基本的にどこかへ行っている。  一人きりの静かな部屋の中央で、胡座をかいて座り、持っていた本を開いた。子供が読むような簡単なものから、ソラには全く理解できない難しい本まで、ヴァルはいつも色々な本を用意してくれる。外に出ることが許されないソラにとって、本は外の世界を知る数少ない手段のひとつだった。  本を読み、時間が来たら食事をして、湯浴みして、着替えて寝る。そうして毎日静かな時間を過ごしていれば、心は穏やかでいられるし、近いうちに外に出ることもできるとヴァルが言っていた。  ソラは、ヴァルの言葉を疑おうなどと考えたことは、ただの一度もなかった。  少なくとも、濁りのない純粋な漆黒に包まれた日常に、目が眩むほどの、それまでの価値観を一新してしまうほど圧倒的で鮮烈な光が差し込むその時まで、ソラにとっては黒の平穏が世界の全てだったのだから。  突然、触れてもいないのに手元の本がパラパラと風に捲られた。 (変だな、今日は窓開けてないのに)  締め切った部屋の中に風が吹くはずがない。謎の現象に首を傾げ、風の出所を確認するために窓のほうを振り返る。  そして、ソラは息を飲んだ。  そこには、月明かりを背負い、窓枠に寄り掛かるようにしてこちらを眺めて立っている男がいた。端正な顔に、ヴァルと同じくらいの高い背丈、美しく威圧感のある姿は、一瞬この光景が幻なのではないかと思わせるほど、神秘的だった。  髪を揺らす風と共に外から入ってきたその男は、驚くソラの顔を見てにやりと笑う。 「よぉ、お姫さん。元気だったか?」  繊細な見た目に反した荒々しい性格が、その瞳に垣間見える。  音もなく現れ、ソラに近付こうと室内へ歩を進めてきた男に対し、ソラは後退りした。  突如現れた正体不明の人物。ソラにとってはヴァル以外の、初めて言葉を交わす龍人。何よりソラを警戒させたのは、男の髪と、その頭についている立派な角が、見たことがないほど美しい真っ白な色をしていたからである。  もうしばらく続くと思われた黒の平穏は、闇を割って吹き入る純白の風によって、想像していたよりも早く、あっさりと終わりを迎えてしまったのだった。
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