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驚きのあまり立ち上がることも忘れて、ソラはずるずると足を使って後退る。
「白銀の、国の…白龍…!?」
聞いていた通り、髪も角も目の覚めるような白さだった。黒龍が生物として圧倒的な強さを誇る存在だとしたら、白龍は見るもの全てを畏怖させるほどの美しさと妖しさを備えている。
今まで黒龍しか知らなかったソラにとって、それは異質そのものであり、何より、本当に自分を誘拐しに来たのだと思えて恐ろしかった。
ところが、怯えて震え上がるソラとは対照的に、目の前の白龍はやけに上機嫌に見えた。
「俺たちのこと知ってんの?良かった。さすが、ヴァルは教育もきっちりやってんだな」
その口から確かにヴァルの名前が出てきた瞬間、足の震えがぴたりと止まった。
「……ヴァ、ヴァルの…知り合い…?」
目の前の白龍が自分に危害を加える存在かどうか見極めようと、おそるおそる視線を合わせその真っ赤な瞳を覗き見る。僅かながら警戒心の緩んだ様子を見て、白龍は畳に膝をつき威圧感を与えないよう目線を下げた。
「そうそう。俺とヴァルは……マブダチってやつ?」
「マブダチ?」
「大昔に生きてた『人間』が使ってた言葉だよ」
知らない言葉がたくさん出てきた。戸惑って、視線を彷徨わせる。
「知らない…俺、記憶喪失だから本で読んだことしかわからないし…。ニンゲン、とか、初めて聞いた」
「は?いやいや、その辺歩けば人間の話題くらい…」
そこで初めて、白龍はソラの足が鎖で繋がれていることに気が付いた。人懐こい笑みを浮かべていた顔がサッと真顔になって、鎖を目でたどり、壁に繋がれていることを確認して眉を寄せる。
「……なんっだこりゃ……しばらく会わねえうちに、新しい性癖でも目覚めたのか…?」
難しい顔でがりがりと頭を掻く。
「お前、名前は…ソラでいいんだよな」
白龍の問いに頷く。ヴァルの知人で、自分の名前も知っている。今すぐどうにかしなければならないような、危険人物ではないのだろうか。
「変なこと聞くけどよ。ソラはその……ヴァルと寝たか?」
「寝た…?ヴァルと俺の寝室は別々だから、一緒に寝たことはないよ」
「あーいや、そういうことじゃなくてな」
何か葛藤しているのか、悩ましげに首を右に左に傾げ、やがて諦めたようにため息をつく。
「つまり、セックスしたかって聞いてるんだ。あいつと」
「セッ……!?し、してないよ!俺たち恋人じゃないし!」
白龍の口から飛び出した言葉に慌てて否定する。セックス、という言葉が性行為を表していること、そしてそれが具体的にどんな行為を指しているのかは、記憶を失っていても知識として頭の中に残っていた。
ソラの反応に、白龍は呆れた顔で苦笑いを浮かべる。
「なるほどなァ……。どうりで国が貧しいままなわけだ」
まだ完全に信頼できるとは言えないが、この白龍は自分の知らないことを色々知っているらしい。もしかしたら、ヴァルと同じくらい博識なのかもしれない。
そもそも、どうやってこの城に入ってきたのか、白銀の国には白龍がたくさんいるのか、聞きたいことは山ほどある。
徐々に警戒心を解いたソラが白龍に歩み寄ろうとした時、何の前触れもなく、部屋の襖が開かれた。
「ソラ、待たせてすまなかった。頼まれていた本を……」
入ってきたのは、数冊の本を抱えたヴァルだった。いつもと変わらず黒を基調とした衣を纏い、長い髪を揺らして、優しい笑みをこちらに向ける。
しかし、その視線にソラと向かい合う白龍の姿を捉えた途端、顔を強張らせ、本がバサバサと落ちるのも構わず、体を斜めにして戦闘の構えを見せた。
突然ピンと張り詰めた部屋の空気と、初めて見るヴァルの怖い顔に、ソラは驚いて動けなくなってしまった。
白龍を凝視したまま、まるでそこに見えない刀があるように腰に手を添えて、ヴァルが低く唸る。
「……レオン、お前ここで何をしている」
「あんたが全然連絡よこさないから、心配になって来たんだろ。それに、そろそろヴァルも俺に会いたかったんじゃねえの?」
「ふざけるな。どうやって入ってきた」
ビリビリと空気を震わせそうなほど威嚇しているヴァルに対して、レオンと呼ばれた白龍の態度は軽いものだった。
「どうやって、ね……。あんな弱くなった結界でよく言うぜ。それより」
ソラの足首から伸びている鎖を拾い上げ、左右に軽く振ってその重さを確かめる。
「コレの説明をしてくれよ。俺には、あんたがやろうとしていたことと、全く逆の有り様に見えるんだが?」
「……それは…」
「返答の次第によっちゃ、停戦協定の破棄だってあり得るからな」
ぐ、と言葉を詰まらせたヴァルが俯く。何か言いたげに、けれどそれを躊躇うように唇を噛み、腰に添えていた手を離して戦闘の姿勢を解いた。
「…もう少し…待ってくれ」
一言呟き、押し黙ってしまったヴァルの次の言葉を待っていたレオンだったが、しばらくして諦めたのか、深いため息をついた。
「ったく、あんたは昔から難しく考えすぎなんだ。…あまり長くは待てねえからな、こっちにも国民の命がかかってる」
「わかっている」
やれやれ、と肩を竦めたレオンは一歩前に出て、二人の会話を見守っていたソラの手を取る。ふわりと香ってきたのは今まで感じたことのない、異国の甘い香りだった。
ソラの手を包むレオンの両手は温かく、当たり前だが、この人も自分やヴァルと同じ龍人なのだと、急に実感した。
「待ってやる代わりに、俺も時々ソラに会いに来るからな」
「何を勝手な…」
「いいだろ?見つかるようなヘマはしねえよ」
言い切るレオンにヴァルはそれ以上言い返せないらしく、頭痛を抑えるように額に手を当てていた。
「……好きにしろ」
「はっ、言ったな。忘れんなよ?じゃあ俺はそろそろ帰るぜ。今日はソラの顔が見れただけで十分だ」
そう言い、握っていたソラの手の甲にそっと口付けを落とした。
一瞬何をされたのかわからず、あまりに自然な動きで顔を上げて、にこりと微笑んだレオンと目が合った瞬間、ソラは首まで真っ赤になった。
「え……ええ……!?何を…」
「次はもっと色んな話しような。ヴァルにいじめられたら俺に言えよ」
名残り惜しむ様子で手を放し、音もなく、外から入ってきた窓へ戻っていく。吹き込む風にはためく白い衣を見て、ソラはハッとして立ち上がった。
「あ、ま、待って!」
「うん?」
軽やかに手すりに飛び乗って、どうバランスを取っているのか、レオンがしゃがんだまま振り返る。窓枠まで駆け寄ったソラはそれを見上げ、勇気を振り絞って真っ直ぐに視線を合わせた。
「今度は…白銀の国のこと教えて。それから、レオンのことも」
驚いた顔で瞳を瞬かせたレオンは、困った顔で笑い、ぎゅっと目を閉じて天を仰いだ。
「あーー……このまま連れて帰りてえ…」
「ダメだ」
「わーってるよ。じゃあな、ソラ。また来る」
そして、星々の輝く暗い空へ大きく一歩跳んだかと思うと、そのまま重力に任せて落下していった。
慌てて高欄まで出て手すりにつかまり、下を覗き込む。そこにはもうレオンの姿はなかったが、一陣の風が吹き付けて、横から煽られたソラの足がよろめいた。
「わっ…!」
「ソラ!」
部屋の中から飛んできたヴァルが手を伸ばす。両肩を支えられたソラが後ろを振り向くと、心配そうな表情の瞳と目が合った。
レオンと同じ赤の瞳。白龍である彼の登場はソラにとって衝撃的で新鮮なものだったが、それに対し、ヴァルの存在はソラにとって自分を守ってくれる心の拠り所であることに、変わりなかった。
「大丈夫だよ、風にびっくりしただけだから。ありがと」
肩に置かれた手に、自分の手を重ねる。なぜかヴァルの手はしっかりとソラの肩を掴んで放さない。どうしたのだろうと思い始めたとき、置かれていた手がソラの腕を滑ってそのまま後ろから抱き締められる形になった。
「ヴァル……?」
大きな体に後ろからすっぽりと包まれて、その体温を衣服越しに感じた途端、先ほどレオンと交わした会話が脳裏に蘇る。今まで、ヴァルのことを性的な目で見たことはなかったけれど、もしかしたら、自分たちが性行為をするような関係になる可能性が、ほんの少しでもあるのだろうか。
そう思ったら、今まで穏やかだった心が急にブワッと波打った気がした。ソラを抱き締めている腕も、伝わってくる体温も、耳元で聞こえる呼吸も、全てが今までとは違うものに感じる。
腕の中ですっかり大人しくなったソラの様子が違うことに、ヴァルも気付いているようだった。
「……もう、今までのように抱かせてはくれないのだな」
寂しさを滲ませつつ、耳元で直接囁かれた低い声に含まれる熱。ソラとヴァルの間で交わされる「抱く」という言葉の意味が、これまでとはまるで違うものになってしまった。
「ヴァル……俺、えっと…」
暴れ出した己の鼓動を抑えることに必死で、適切な言葉が見つからない。自分の中の変化を伝えるために何か言わなくては、と考えているうちに、ヴァルはソラの肩に顔を埋める。
それは、疲れ果てた渡り鳥が木陰で羽を休めるような姿だった。
「すまない、しばらくこうさせて欲しい…。君を怖がらせるようなことは、何もしない」
初めて見るヴァルの弱った一面に、驚きながらも、知らなかった彼をひとつ知ることができて、ソラは嬉しかった。
(……ヴァルは、どう思ってんのかな)
そっと手を伸ばし、角に触れないよう気を付けて、その頭を優しく撫でる。そうしてしばらくの間、穏やかで、けれど今までとは明らかに違う時間を、二人で過ごした。
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