序章ー結婚式ー

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「それでは誓いのキスを」と神父さまがおっしゃった。 「……」 (キス……?!) 灘湊一郎がわたしの顔にかかっているヴェールをゆっくりとあげる。ゆっくりしているが、躊躇いは感じられない。 背の高い彼の表情はまるっきり見えない。 細身の体躯でありながら発達している胸を彩るブートニア。それが彼をわたしの花婿だと主張している。 純白と紫の桔梗と淡い緑の利休草。私もお揃いのブーケを持っている。 わたしたちの結婚式なのだ。たとえ、実感はわかなくとも。 灘の長い指がわたしのヴェールをあげ、そっとしゃがむように上体を下げたとき 「彩綾!!」と若い男性の叫び声が聞こえた。 「待って!彩綾!行くな!行かないでくれ!」 後ろからどんどん近づいてくる大声。 鳴海航(なるみわたる)……わたしの交際相手…… 柔らかな猫っ毛は綺麗な栗色で、榛色(はしばみいろ)の瞳はアーモンドアイで、いつも笑ってるような顔で、メガネ男子で、細身なんだけど何故か手はぽちゃっとしていて、ぼーっとしてるようで、でもしっかりしてる…… けれど、もう、遅い。 (もう、遅いよ、鳴海さん) わたしは決めたのだ。 自分の生家であり、祖父が一代で築いた『水神(みずかみ)物産』を守ること そのためには、立派な跡取りが必要であること 祖父の帝王学、そのすべてを叩き込まれたのは。赤の他人であり、野心家の灘湊一郎だ。 祖父が決めた婚約者であるこの男とわたしは結婚する。 (さようなら、鳴海さん) 生まれてから今日(こんにち)、記憶のほとんどが途切れ途切れのわたしでも、心がちぎれそうになる。 でも鳴海さんは遅かった。そして才覚もおそらく、ない。 (さようなら、鳴海さん) わたしは叫ぶ鳴海さんを尻目にしたあと、目を閉じて上を向いた。 涙が鼻腔を流れそうになる。でも(まなじり)からこぼしてはならない。外側には何も見せてはならない。感情を表に出してはいけない。わたしは灘湊一郎の誓いのキスを待った。 「……」
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