序章ー結婚初夜ー

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ホテルの部屋は最上階にあった。 まもなく夕暮れを迎える海が見える。 きらめいていて作り物のように光っていた。 美しい部屋は豪奢なのに嫌みがない。 「彩綾。疲れただろう」 灘は荷物を置いた。 カバン一つだ。新婚旅行は予定されていない。結婚式を行ったホテルに一泊して終わりだ。 しかし見事にビジネス用のバッグだった。 「ごめんなさい」 「なにを謝る」 「……だって……」 「結婚式のことならば君のせいではない。 そんなことより、ゆっくり休みなさい。 シャワーでも浴びると良い」 「あ、あの……」 「俺は君とは眠らない」 「……」 え? 「手を出せないだろう?」 淡々と灘湊一郎は言う。 「君はあの男が今でも好きだ。 今も昔も彼を愛してる」 「……」 「迎えにきてくれたのに。 君は本当に頑固なんだな」 「……ちがいます」 「なら、俺に気を遣ったんだな。 相思相愛なんて、夢みたいな物語だぞ。 それにこの取引は俺と結婚しないとしてもいかようにもできたはずだ。 うまく立ち回っても良かったんだぞ。彩綾は潔癖で真面目だな」 「……ちがいます、灘さん」 「灘さん、か…。 まだ籍は入れていない。君はゆっくり休むといい。ああ、そうだ。 ポリカーボネイト系のウレタン樹脂の特殊生地だ」 「え?」 「このカバンの素材だ」 ポンっとビジネスバックの表面を叩く。細身なのに底マチがしっかりしていてびくともしない。 「防水加工で汚れることもない。なかなかタフだ」 「……(え?!わたしがカバンを凝視していたから、品物をチェックしてると思われたの?!)」 「君はそういうものが好きだろう」 ふ、と灘は微笑んだ。 窓の外に広がる海は夜の帳を下ろそうとしている。 「そういうもの?」 「素材とか本質を知りたがる」 「……」 灘はわたしの知らないわたしを知っているのだ、きっと。 わたしは曖昧な返事もできず、立ち尽くした。 「俺は『式』と名のつくものは嫌いだ。期待はしていない」 「……」 (やはり望まれてはいなかったんだ) 認識していたはずなのにショックを受ける。 どこに行っても自分はどこかしら居場所がない。 「さあ、もう行きなさい」 灘に促される。 「疲れただろう。体を温めてから眠った方が良い」 わたしはバスルームに入る。 アップにされた髪をほどく。 花嫁用のメイクや、ドレスの邪魔にならないランジェリー ビスチェを脱ぎ捨てる。 その状態で鏡を見た。 裸になったわたしは不思議と美しかった。 今日は初夜なのだ。 彼は花婿で わたしは彼の妻で わたしたちは神の前で誓い合ったはずなのに。 「……」 全裸のわたしが唯一身につけているのは鍵だ。 家の鍵が胸の谷間で光っている。 チェーンにつけて肌身離さずつけている鍵…… ……結婚の理由。 「……」 爪を噛み、もう片方の手でしばらく鍵をまさぐる。 寒い。 わたしはシャワーを浴びる。 この音は灘にも響いているのだろうか。
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