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ポケットに突っ込んだ手のなかで六角柱を握りしめる。手に取ったときはひんやりと冷たいだけの水晶だったが、今は人肌にぬくもっていた。もう一度、月夜にかざして美しさを確かめようかと考えたが、掌にすっぽりと収まったその結晶を外気にさらすのはためらわれた。彼にとってはもうただの水晶ではなかったからだ。
アスファルトにはうっすらと雪が降り積もっていた。街灯もまばらな道を一人で歩く。踏みしめた雪は高く軋むような音をかすかに立てた。
地面に着いたかかとが、あるいは地面を蹴りだすつま先が、どんな音を上げても彼は振り返らなかった。振り返った先の光景が彼には目に見えていた。さっき別れた老人はまだ無事だろうか。まだ鉱物になってなどいないだろうか。
人間が鉱物になるという奇妙な現象が確認され始めて一年で、世界は人口の七割を失った。原因不明の事態に未知の病原菌や軍事国家の生物兵器、はては宇宙人の侵略などと噂されたが、結局はっきりとした原因はわからなかった。ただひとつわかったのは、鉱物になってしまった人の死に際の足音には、何か軋んだような異音が混じることだけだった。
それが聞こえても振り返ってはならない。さっきの老人はそう言った。その言葉が正しいと彼も信じていた。初めて目の前で結晶化する人を見たとき、その人は寸前に振り返ったのだ。そして足元から瞬く間に、人の形をとどめず鉱物となった。あとに残ったのは美しく澄んだ蒼い結晶だけだった。
降りしきる雪の中、坂道を登っていく。立ち止まることはできない。立ち止まればその場から、何か別のものに変じてしまう、そんな気がした。民家もまばらになり、街灯の間隔も開いていく。
いつのまにか人気のない場所を探していた。周りに人などいなかったが、そういうことではなく、人が来ないだろうと安心できる場所に行きたかった。
彼は通りを外れて、細い小径に入った。周囲を竹やぶに覆われた見通しのきかない道だ。頭上だけが開けていて、夜空に薄く雪雲がかかるのがみてとれる。
手の中で水晶を転がす。
人から生まれた鉱物たちは個々に差はあるが、時間をかけて消えていく。それは、身近な人の死であっても、不在がゆっくりと日常になっていくのと同じ感覚だ。鉱物になった人間が、かつては人間として存在していたことが忘れられ、いつの間にか消えてしまう。
色の美しいものや形の珍しいものほど早く消える。美しさの一端を孤独がになっているのだろう。個々の人柄がにじむその鉱物は魂の具現なのではと思いさえする。
でも、いまこの手の中にある水晶は人からできたものではない。天然の水晶だ。その美しさを保って、ずっと残る。人がみな鉱物になり、いなくなった後でも変わらず残る。
握りしめているのは希望だ。
しばらく歩くとそこは行き止まりだった。振り向かないことにはどこにも進めない袋小路だった。ここが到着点なのだとわかると、不意に涙が込み上げてきた。足音の軋みはいつの間にか、高く澄んだ音に変わっていた。背筋がしゃんと伸びるような、青空へと高く高く抜けていくような晴れやかな音に。
彼はおもむろに水晶をとりだし、月光に透かし眺めた。しんしんと降る雪が夜を白く染めている。
彼は後ろを振り返る。風が吹き抜ける一瞬に、生まれてからいままでの情景を見た。
だれもいない小径の果てで、一輪の花が咲いた。翌日の昼には消えてしまったが、冷たく澄んだ鉱物の花だった。
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