よくある、普通の『私』の話

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   どこにいったの、と声がした。  何だろうと顔を向けるとお母さんが疲れた顔で話をしている。 時々、くぐもったようなお父さんの声が聞こえてくるけど喧嘩をしているみたいだった。  なんだろう、と近寄るとお母さんが私に気付いて膝をつき、ぎゅぅっと抱きしめてくる。 お父さんの声は聞こえない。 「おばあちゃん、またいなくなったの。あの人、本当に何なの? 嫁いできた時から厭味ったらしくて、私のやることなすこと貶してっ、挙句にこれ?! あの人に言っても何もしてくれない! なによ、ちゃんと見てないからですって?! 自分の母親なんだから他人の私に任せないで最後まで自分で面倒見なさいよッ」  暗い声がどんどん怖い声になってずっとついてくる。 朝も昼も夜もお母さんは笑わなくなってきているから、私はお母さんの傍にいる。  だからこそわかる。 近いから良く聞こえるその声の裏にある感情が。 それが伝わってくる度に、私も一緒に悲しくなった。  情けない声が出るけれど私には何かをしてあげることはできない。 できる事と言えば体をお母さんにぴったりとくっつけて、温めるだけ。  お母さんは寂しいのだ。 寂しくて、疲れていて、誰かに分かって欲しい。  私に縋りつくお母さんは、少しずつ小さくなっていってるみたいで心配になる。 引っ越してきた時に綺麗に片付いていた台所には、食器やいろんな食べ物の匂い。  倒れたままの箸立て。 捨てるのが間に合わない燃えるゴミの袋が2つ、仲良く並んでいる。 臭いから、とお姉ちゃんが置いた変な匂いのする置物が沢山あるのだけど、それの匂いが私は苦手だ。  お姉ちゃんも、お父さんも、お婆ちゃんも好き。 お兄ちゃんはあまり返ってこなくなったけど、時々こっそり私に会いに来てくれる。 お兄ちゃんも、好き。  どうして、と繰り返すお母さん。 誰かが悪い訳じゃないことを、私は知っている。 だから、行こうと思うのだ。 『私は、大事な家族を守らなきゃ』 えらいね、すごいね、いい子だねって褒めてもらいたくて。 沢山、笑って欲しくて。  泣いて疲れて眠ってしまったお母さんに、お気に入りの毛布を掛けて私はお姉ちゃんが鍵を閉め忘れたお姉ちゃんの部屋の窓からそっと、家の外へ。 必ず戻るよ、と小さく小さく決意表明。  それから、私はお婆ちゃんのあしあとを追う。 お母さんにも、お父さんにも、お姉ちゃんにも、お兄ちゃんにもできない私の特技。  沢山、たくさん歩いた。 寄り道したくなったけど、我慢して。友達に話しかけられても『今、お婆ちゃんを探してるの』と返事をして遊べない理由を話し、ひたすら歩く。  他の人に見つかるのはちょっと怖いけれど、私は真っすぐに堂々と歩いた。 知っている人が私を見て名前を呼ぶ。返事をする。 知らない人が私を見て眉を顰める。気にしない。  灰色で硬い道をあるいて、小さい小石や大きい小石が沢山ある場所を横切って、草と土の気持ちいい場所を踏んで、進んだ。 お腹がちょっぴり空いたけれどお母さんが沢山ご飯をくれたから平気。  歩いて、歩いて、ちょっと休憩して……あしあとをたどる。 着いた場所は―――…大きな公園の、大きな木の下。 お婆ちゃん、と走り寄ると一生懸命木の根元を掘っていた。 何をしているのかな、と覗き込むとお婆ちゃんは珍しくはっきりと私を見た。 汚れた手で私の頭を撫でて、またガリガリと細くなった指で土を掘り返す。  それなら私が得意だよ、と代わりに掘るとお婆ちゃんは嬉しそうに笑って頭を撫でてくれた。 「あった……ああ、よかった。ダメだねぇ、ほんとうに、駄目な、ばあさんになっちまった。悪いことをしたねぇ、ほんとうに。みんなに、迷惑をかけてばかりで嫌になる」 短く切りそろえられた爪には土がたくさん詰まっていて、あんなに自慢していた綺麗な指も汚れている。  でも、お婆ちゃんはとても安心したという様に笑って、そして前みたいにピンっと立ち上がった。 それが嬉しくて、嬉しくて、私はおばあちゃんの周りをまわって、そして――― お婆ちゃんを守るためにしっかりと道案内をした。 家までの道は覚えている。大事な場所だ。私の大事が詰まっている場所だ。  暖かいお日様がいなくなって、お月様が顔を出した。 その頃に漸く家が見えて来たけれど、家の前にはお父さんとお母さん、お姉ちゃんとお兄ちゃんがいる。  嬉しくて、嬉しくて走り出したくなったけれどお婆ちゃんを置いてはいけないから我慢して、ゆっくり歩く。車が時々この道を凄く早く走っていくのを私は知っている。  最後まで慎重に、でもちゃんと家の前にお婆ちゃんを送り届けると皆は私を褒めて、お婆ちゃんと一緒に家の中へ入れてくれた。 お婆ちゃんは、しゃんとして「ごめんなさい」と謝っていたから、私も頭を下げておく。  心配したよ、って皆言っていたから。 お姉ちゃんは泣いていた。 お家に入って、私にはお水とご飯と、滅多に食べられない凄く美味しいオヤツが出される。  のんびりおやつを齧っていると、お婆ちゃんはご飯も食べずに探していたものをテーブルの上に置いた。 倒れた箸置きは元通り。積み重なった食器も食べ物の匂いもそのままだ。 「なぁ、隆幸。私を施設に入れとくれ。年金がある。爺さんの残した金もある。なんちゃら認定を受けただろう、あれがあればはいれるんだろう? もう、これ以上私はお前たちに迷惑をかけたくはないよ……こんな性悪な婆はこの家にいられない」 「母さん……? なにいってるんだ、そんなにしっかりしてるのに」 「馬鹿だね、お前は。今だけさ。すぐに、訳が分からんくなっちまう。忘れちまうんだ……そうだろう? 里恵さん。今まですまなかった……ずっと欲しかった娘ができたみたいで嬉しかったんだ。本当は。意地悪をする気なんてなかった……大事にしたかった。けど、駄目だ。元々の性格がキツいってわかってた。私には学もない。こんな言葉しか言えないから随分傷つけて来ただろう、すまんかった」 「お、お義母さん…! なにを」 驚くお母さんにお婆ちゃんは掘り返したものを渡した。 金色のキラキラした小さな輪っかが2つ。 「結婚指輪だ。爺さんとの―――……アンタに盗まれると思って隠したんだろうね、どうしようもない馬鹿さ。これはね、アンタにやろうと思ってたんだ。そんな小さくても金だし、石っころもついてるから売れば金になる。この子たちの学費や生活費にでもしとくれ。はした金にしかならんかもしれんがね」 それから、とお婆ちゃんはのそのそと自分の部屋にいって、箱を持ってきた。  お婆ちゃんが大事にしている箱。 近づいたら怒られた箱。 「―――……この石は、爺さんが若い頃にくれた。こっちは有紀にやろう。シンプルなデザインにしたからまだつけられるはずだよ。健斗はこれだ。爺さんが成人したら渡すと言い張ってね――― 死んじまって、婆ちゃんも頭がおかしくなってずっと渡せんかった。すまんかったねぇ……すまん、かったぁ」 お婆ちゃんが泣いた。 子供みたいに箱を抱えて、泣いていた。 お母さんも、お姉ちゃんも、お兄ちゃんも、お父さんも泣いていた。  それから、その夜はご馳走が出た。 皆、久しぶりにニコニコしてて、お婆ちゃんは私の嫌いなお風呂でいい匂いになって、綺麗な服を着て笑ってた。 ――――……次の日には、お婆ちゃんは元に戻っていたけど今まで見たいに皆苦しそうな顔はしていなかった。  幸せそうに、時間を惜しむようにお婆ちゃんと一緒にいて、お婆ちゃんもニコニコ笑ってた。 子供みたいに笑ってた。 また、夜が来て朝がきて。 三度目の朝が来た頃にお婆ちゃんは沢山の荷物と一緒に見たことのない沢山の人がいる建物には行ったっきり出てこなくなった。  時々、少しの間家に戻ってくるけれど私のことも分からなくなっているみたいで子供みたいな顔で毎回名前を聞いてくる。 『あんたは、白くてフワフワだからね。ユキだ。ユキ、あんたの名前はユキだよ』 そういって私に名前をくれたのはお婆ちゃん。 散歩に連れて行ってくれたのはおじいちゃん。 遊んでくれたのはお兄ちゃんとお姉ちゃん。 ご飯やお水をくれて話しかけてくれるのはお母さん。 沢山撫でていろんなお話をして、こっそり美味しいものをくれるのはお父さん。  私は、ユキ。 もうすぐお婆ちゃんに会える。 昨日、久しぶりにお婆ちゃんが頭を撫でてくれたから。 お爺ちゃんも頭を撫でて名前を呼んでくれたから。  お爺ちゃんもお婆ちゃんも悪いモノから皆を守ってるんだって。 だから、私もそのお手伝いをしに行く。 会えなくなるのは寂しいけれど、今は滅多に泣かないお兄ちゃんも泣いてるけど、きっとすぐに笑ってくれる。  私じゃない二番目の子が、そっちで泥棒から家も人も護る。 私はおじいちゃんやおばあちゃんと悪いのをやっつける。 分担しようね、ってご近所でお母さんになった宿ったばかりの命の一つと約束をした。 その子は、きっとこの家に来る。 お父さんとお母さんとお姉ちゃんとお兄ちゃん、そして見たこともあった事のもない人と小さな命と楽しく私みたいに暮らす。 幸せだよ、幸せだったよと最後の最後に私は吠えて、眠りについた。 外は白くてフワフワの雪が、ちょうど降ってきたところだ。
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