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1話
「今日で10年かぁ」
オオカミ男は言った。呆然と天上を見上げながら。パソコンを前にして。今夜は満月なので姿はオオカミだった。
ギシギシと座椅子が鳴る。どことなく、部屋の中には獣の毛が舞っているように見受けられた。バブル期に建設され、その後増改築を繰り返してきた安アパートの一室が毛まみれになろうとしていた。掃除しなくては大家になにか言われるだろう。
遠くで電車の走る音が響き、救急車のサイレンの音が離れていく。
都会はちょうど日が落ち、夜になり始めたところだった。
「なにが10年なのよ」
そう言ったのは同居している魔法使いの女だった。魔法使いといっても服装はスウェットである。グツグツと鍋でなにかを煮込んでいた。換気扇を全開に回し、消臭の魔術(自称)もかけているが部屋の中にはどことなく異臭が満ちていた。これもまた、このボロアパートの一室にはまずい。大家になにを言われるか分からない。
二人は幼なじみだった。最初、この大都会名古屋の街にオオカミ男が移り住み、それから魔法使いが住む家を安く上げるために転がり込んできたのだ。シェアハウスというわけである。
ちなみに二人に恋愛感情はなかった。魔法使いは仕事場の同僚の彼氏が居る。
オオカミ男に彼女は居ないが魔法使いは妹か姉のようにしか感じていなかった。
純粋に幼なじみでしかないのだった。
「小説書いて10年なんだよ今日。高校出てフリーターになった歳に書き始めたから。今年で10年」
「ふーん、おめでとう」
「うんうん、まぁ、めでたいんだよ」
オオカミ男はぼんやりコーヒーをすすった。思い返しているのだ。この10年を。
オオカミ男が小説を書くようになったのは最初は小説家を目指してのことだった。
繰り返すはしがないバイト生活。オオカミ男という境遇に強烈なコンプレックスを感じて選んだ道だった。普通の社会に馴染めるとは思えないからフリーターになって社会の外側に行ったのである。しかし、不安定なフリーター生活だ。なにもしなかったら将来の不安に押しつぶされてしまう。なので、小説家を目指すことにして不安を和らげたのである。そして、人生一発逆転を狙ったのだ。
まず短編から書き始め、徐々に書く話の長さを増やしていった。しかし、小説を書くというのは難しいものだ。まず、終わらせるのが難しい。面白いかどうかなどその後の話しだ。
長編なんか始めは書けるはずもない。なんなら、一生書けないのではないかとオオカミ男は思っていた。
しかし、人間慣れというものは恐ろしく、5年も書いたらなんとか長編を完成させることに成功していた。面白いかはさておきだ。
それから、ぼんやり二次創作をしたり長編を書いたりして過ごしていた。まだ小説家にはなれていない。
しかし、正社員にはなっていた。オオカミ男はフリーターを脱し、今配管会社で働いていた。オオカミ男には力仕事が向いていた。満月の日は午後半休にしてくれるありがたい会社である。おかげでオオカミ男はこの体のコンプレックスで傷つかずに済んでいた。
オオカミ男の生活は少しだけ、安定してきていた。
「長かったような短かったような」
「ふーん、なにはともあれ。物事を10年続けるって中々出来ることじゃないでしょ。良くやったんじゃない?」
「まぁなぁ、そうだよなぁ」
オオカミ男はもごもご言っていた。オオカミ男は恐ろしく卑屈なので、一番頑張って取り組んでいる小説でさえ、その成果を容易には認めないである。
「小説を書くのは上達したの?」
「上達っていうのがどうなのかは分からないけど、どうなのかなぁ。どうだろうな。なんか変わったのかなぁ」
オオカミ男は天井を仰ぎ、魔法使いは鍋にさらに何かぶよぶよしたものを投入していた。彼女は医療事務の仕事の傍ら、本業と言い張る魔法使いの仕事をしているのだ。あれもなんらかの薬品を作っているのだろう。魔法使いという仕事も現代ではまったくニーズが無く、こうして副業のようにこなしているのである。
「なにか良いことあったの、この10年で」
「何人かネットで小説読んでくれる人が出来たのは嬉しかったかな。それ以外はなかったな。生活に変化を与えることは無かったし、内面を変えることも無かった」
「まぁ、趣味なんてそんなもんなんじゃないの?」
「まぁ、そうだよな。趣味なんて普通そんなもんだよな。変わりまくってるヤツが特殊なんだよなぁ」
オオカミ男が思い浮かべるのはネット上でものすごい評価を貰いまくったり、人間関係が広がりまくったり、あまつさえ書籍化などしている人々だった。全員遙か前方を突っ走っている人々である。すごすぎてワケが分からなかった。
オオカミ男はこの10年でどれだけの背中を眺めたか分からない。どれだけの背中が横を追い抜いていったか分からない。背中を眺める事は飽きるほど味わってきたのだ。
オオカミ男は牛歩の前進である。
「まぁ、それでも何人か読んでくれる人が居るのはありがたいことだよ」
「殊勝なことね」
「まぁ、色々書いたよこの10年」
オオカミ男はブロックチョコの包みを剥がして口に放った。獣の鋭い牙ではチョコは食べづらい。舌の上で転がすばかりである。
オオカミ男はこの10年書いてきた小説に思いを馳せた。正直もう忘れているものも多い。なんだかんだ、大体毎日パソコンに向かっていたオオカミ男だ。まぁ、書いている量は少ないのだが。
完成させて嬉しいものもあったし、もう記憶に残らないほど興味を失ったものもあった。
凡夫の書くものといえど、10年も書けば色々である。
「じゃあ、この10年で一番嬉しかったことは?」
魔法使いは最早若干インタビュー口調だった。こういうノリも幼なじみなので慣れた二人である。
「長編が書けるようになったことかな。最初のころは一生書いても書き上げられるようになはならないと思ってたから」
「じゃあ、悲しかったことは?」
「自分に才能が無いって分かったことかな。少なくとも、あると言える側には居ないんだ」
オオカミ男は書いて書いて書いて、書きまくった末に自分には小説を書く才能は無いのだと理解していた。小説家になることは恐らく不可能だと理解していた。
「でも、それも必ずしも悪いことじゃない。10年書いて分かったことだ。それに気づけなかったら、きっと俺は一生無い才能をあると主張して、半端な生き方をしていっただろう。だから、知れて良かったことなんだ。悲しいことではあるけどさ」
「ふぅん、殊勝なことね」
ここまで続けて才能を測れていなかったら、俺はその気になれば小説家になれるんだ、やってないだけだと言いながら死ぬまで過ごすことになっていたのかもしれない。少なくともオオカミ男にはそう思えた。
この10年、なにも無かったようでいろいろあったようにも思われた。
小説があったからここまでやってこれた気もしたし、小説があったせいでうまくいかなかったような気もした。
小説を書くのは苦しかった。何度止めようとしたか分からなかった。しかし、結局ここまでぐだぐだと続けてきた。
そうやって10年続けてきたのだった。
「それで、10年の総決算。一言で言うなら?」
「一言って、そんな簡単に」
そう言いながらもオオカミ男は腕を組んで考え込んだ。
一言、10年を一言で。難題だ。そして、これはそれを難題と知らない人間が聞く質問だ
うんうん唸り、時間をかけてようやくオオカミ男は答えた。
「まぁ、好きにやった、といったところかな」
オオカミ男は思い返してみて。思い通りにやってきたつもりも、上手くやってきた気もしなかったが、好きにやってきたのは間違いないように思われた。
なので、少し格好をつけるならそれが相応しい一言であるように思われたのだった。
「ふぅん、当たり障りのない一言ね」
「仕方ないよ。当たり障り無い10年だったから」
「つまらないのね」
「ああ、つまらないね。つまらないけど、悪いもんでもなかったよ」
オオカミ男は満足そうに言った。
まぁ望み通りにはならずこれからもこのままかもしれなかったが、ある程度の満足感はあった。
それこそがオオカミ男の限界なのだと言われればなにも言い返せないが、言い返せなくても別に良いような気がした。
「まぁ、これからも多分そんな風に書いていくよ。どのみち、他にやりたいことも無いし、ここまでやってきたから。止めるに止められない」
「そう、変わってるわね。昔はもっと普通だった気がしたけど」
「そうかなぁ。昔が普通じゃなくて、今が普通な気がするけど」
「ハタから見たらそうなのよ」
魔法使いはケタケタと笑った。なにかおとぎ話の魔女のような笑い方だった。魔法使い的には面白いことだったらしい。オオカミ男は良く分からなかった。
そんなことよりオオカミ男はせっかくだから何かお祝いでもしようかと思った。
10年だ。普通の人からしたら大したことでもなく、どうでも良いことかもしれないが、オオカミ男の人生的にはそこそこの事態であろう。
少しぐらい自分にご褒美をあげても良かろうというものだ。
今日は姿はオオカミなので魔法使いに頼み込んで、旨い寿司と日本酒でも買ってきて貰おうとオオカミ男は思った。
それで、今夜はささやかに楽しもうと。
が、
「ああ、ダメだわこれ」
魔法使いが言った時だった。魔法使いがかき混ぜていた鍋、それがまばゆく光り始めたのだ。魔法使いはフタを盾に飛び退く。
「あ!? またか! 何度目だ!」
「20回目よ。これも記念すべきことなんじゃないかしら」
そして、魔法使いのかき混ぜていた鍋は吹っ飛んだ。閃く閃光、轟く爆音、そして飛び散る鍋の中身。
「あーあ」
魔法使いは力なく漏らした。
たちこめる湯気が晴れた頃には安アパートの部屋の中は惨状と化していた。
キッチンは焦げ付き、壁中ぬ緑色のジェルがへばりついていた。
最早、掃除で残り一日が潰れるであろう事は容易に予想できた。
「今度はうまくいくと思ったんだけど」
「なんてことだ。また、大家に怒られるだろうが! 俺が!」
「まぁまぁ、せっかくおめでたい日なんだから。カリカリしない方が良いわよ」
魔法使いはまたケタケタと笑った。たまったものではなかった。
そんな感じで、オオカミ男の記念すべき執筆生活10周年の一日は部屋の掃除と大家からの逆鱗で過ぎていった。最後に魔法使いがお詫びで特上寿司を奢ってくれたのがせめてもの救いだった。
そして、その後にはオオカミ男は次の小説のプロットを練り、それから寝たのだった。
そんな感じで、オオカミ男の執筆生活11年目が始まるのだった。
きっと、これから何も起きないであろうし、何者になることも出来ないであろう。
だがまぁ、これといってやることもないオオカミ男は小説を書いてみるのだった。
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