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「麻生さん?」
その名で呼ばれることは今ではもう、ありえなくなっていた。だから反応が鈍ったというのも確か、けれどその名で呼ばれるということは確実に〝当時〟を知る人物の声であるということだった。つまり、今その名でこちらを呼んだ相手は関係者、その大半が警察の人間。
六月に入ってから降り続けている雨に、その人物は傘を差さずに立っていた。黒いスーツはずっと濡れ続けた風でもなく、今しがた降り始めた雨に濡れているような程度だった。それだけでその人物が〝麻生〟を目指して来たことも車を横づけして降りて来たのだろうこともわかった。
住宅地の路上、麻生は休暇の昼過ぎに買い物へ向かおうとしていた。そこにその人物は現れ、呼び止めた。年齢は自分よりは年上で、後ろに撫でつけていたのであろう黒髪が雨で濡れて、毛束が何本か下りてしまっている。水をきちんと弾く革靴もよく磨かれているようで、あの頃の麻生がよく見た関係者の幾らかとリンクはしたが、一致まではしなかった。
「麻生圭さんで、間違いありませんか」
「……はい」
その名で呼ぶと言うことはきっとそうなのだ。だが、前もっての知らせがない分良い話ではない。悪い話だからこそ、彼等は直接足を運ぶと麻生は知っている。それが義理だとか、情だとかで。
「十四年前の事件についてお聞きしたいことがあります」
「……今ですか?」
「はい、最近新たな動きが出て他にも被害者がいた可能性が」
これまで何度も似たような言葉を聞いては空振りをしていった。なにもかもが固まってから来てくれたら良いものを、そうはいかないのがこの組織なのだ。
「わかりました」
「誰かが聞いてしまっても、こちらが聞かれてしまっても心地の良いものではないと思いますので」
半身をあけるようにして男は道を促す。雨が伝ったのだろう、しきりにまばたきを繰り返して細められた目が少し、険しく見えた。
「そちらのお名前を聞いていませんでした」
「阿戸です」
それは麻生の知る名前ではなかった。十四年も経っては当時の関係者が残っている方が珍しいことなのかもしれない。
阿戸と名乗る男に連れられ、麻生は少し離れた路肩に停められた黒い車に乗り込んだ。濡れた傘はドア側に倒して置いた。六月でも雨ばかりが続けば相当に寒い、エンジンがかけっぱなしにされていたお陰で車内は温かく、窓が一気に曇っていった。
細く細かい雨が続き、窓ガラスも人体の熱で曇る。車中は内も外も互いが隔てるように白みがかっていた。
阿戸が運転席で座る間際に座席と背中の間にA4の茶封筒を挟んでいたが、口を開くその瞬間もそれには触れずにいた。
「十四年も経って当時の担当者は何人も定年を迎えています。特に、貴方に接していた年代の方々が。現役で残る者も当時が若く、今では違う部署か昇進で殆どがばらけてしまいました。特段、この件が未解決というわけでもありませんでしたから、今回にも当時の関係者はほぼ」
「仕方ないと思います。自分だって、もう大人になりましたから」
「初めて顔を合わせる私に当時のことを語るのにはなかなか、嫌な部分があるかと思います。けれど、こちらも今回のことがあってから当時の状況や事件の内容、勿論、貴方のことも既に知った状態でいます。ですので、出来れば身構えずに、もう知っているということを念頭にお願いしたいとは思います」
「知っているのなら大丈夫です。もう、名前も知ってるようなので」
「ええ。ああ、そうですね」
考えが至っていなかったのか、こうしたデリケートな問題に携わるのが初めてのことなのかもしれない。阿戸は、雨で濡れた顔を手のひらで拭いながら失態に気が付き口元を抑えた状態で眉を寄せていた。
その名前を知っているのならその名前の人間になにが起きたのか、なにが起きたから今現在その名前ではないのか、そしてその名前であった人間から聞くものも当然知っている。しかしそれが現実だと受け入れがたいが為に、気遣いが細部まで行きわたりきらないといった風だった。
「知っているのでしたらオブラートにしたい気もありません。当時に、嫌だと言っても言わされたことばかりです」
慣れた、とまではいかなくとも、諦めは既にその当時についている。
「十四年前には生還しましたが、始まったのはその四年前からになります。そこで見た太陽と空が最後、次に見たのが四年後でした」
この世界から切り離されたあの日は、今日の天気とはまるで正反対の、じりついて暑く、美しい晴天だった。
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