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夏休み、宿題も手つかずで友人と遊びまわっていた二日目だった。一日目は「夏休みだから」と母親も口うるさくは言わなかったが、その日は朝七時半から家を飛び出し、昼食を食べに戻った十一時には一度こっぴどく怒られた。相手の親御さんにも申し訳ないと言うが、それがただの体裁だということは既にわかる歳でもあった。
殆ど飲み込むようにかきこんだカレーの味もその日が最後だとは思うはずもなく、まるで感謝のかけらもなかった。
十一時半にはもう一度家を飛び出し、友人と待ち合わせた公園へと向かった。けれど友人はまだおらず、持て余した時間を潰して公園内を歩き回った。
元来じっとしているのが苦手だった。あちら、こちらと回っている内に公園と野放しの林が繋がるような場所にまで入った。けれど特にその場が危ないという認識もなく、その先に伸びる土手は冬になればソリ滑りの場所にもなる、子供の自分にとってもそこは「公園の一部」の場所だった。
その土手へ抜けようとしただけだった。
夏の陽射しで生い茂った草木を左右に分けて進んで行った。
その先に広がる高台からの空と、直前に分けた草の緑が、四年後までの自分の最後の世界になった。
唐突に目覚めた自分になにが起きたのかわからず、先程までは公園にいたはずが目の前が真っ暗だった。あのまま土手を落ちて、今自分はどこかに転がっているのかもしれない。混乱した頭も勿論〝正常な結果〟しか導き出せはしない。きっと、落ちて、夜になってしまった。帰らなければ、母に、父に怒られてしまう。
けれど、それが〝なにか〟も察せることもない結果になっていた。身じろぐ体は自由ではなく、腕と足はなにかに繋がれていた。正確には腕が肘から下が纏められてどこかに繋がれ、足は左右別にどこかに繋がれた先があった。
それが〝どう〟で〝なに〟であるかはわからなかった。視界は暗い、どこにも光源は見つからなかった。
言い表せない混乱で声のひとつも出せなかった。視界が利かず体も自由ではない。ここがどこで自分がどうなっているのか、どうやってここに来たのか、なにがどう、なにもかもがわからなかった。
恐怖で体を縮めきってもそこに被るもののひとつもなかった。
その内自分がまともな服も着ていないことに気が付いたのは、まとめられた腕の革が足を冷やしていたことに気が付けた頃だった。
「重いですか?」
阿戸は、先程から眉間に深い皺を刻んだままでいる。きっと、やはり慣れていない。十四年前の関係者が散り散りになったように、彼もまたどこからか散って来た人材なのだろう。
このままでは吐き出すのではないかという程、顔を歪めている。言葉を止めてひと息が許された阿戸は僅かに窓を開け、隙間から入り込む冷えた、新鮮な空気を大きく吸い込んでいた。
「重くないものはないと思っていましたが」
「重いでしょうね」
触れる自分自身の体には当時の傷が消えずに残ったままでいる。けれどけして全てが〝つけられたもの〟というではない。
「でも、重いのはこれからです」
よく正気を保って今も生きている。自分自身でも、そう思えていた。
暗闇から自分以外の気配がしたのは〝その〟直前だった。足音がする、近づく。気が付いた時に顔を擡げ、その方向を探ったのと殆ど同時に、急激に視界が白んだ。扉が開いたのだ、長方形の白が蝶番の音と共に広がって、また縮んで、なくなった。けれど暗闇に慣れ過ぎた目にはその後も白が残り、自分に近づく人の気配を正確に判別出来もしなかった。
気配は近づく、視界に残る長方形の白が消えない。急激な変化で一旦は収まった混乱も再度暴れ始めて喉がうわずる。
その人物は、混乱する自分の体をさすって「シィー」と何度も続けた。まるで大丈夫だからと宥めるように。そうされて、てっきりそれが助けなのだと判断した自分が落ち着くと、間もなくしてその人物は離れ、足音が離れ、また蝶番の音と共に扉が開いて視界が白んだ。足音が更に遠のく、人の気配はなくなった。
既に狂い始めていたであろうが、体感にして三時間程度空けてまた同じように人の気配が現れ、扉が開いて白い長方形の光の増減、「シィー」と体をさすって宥める時間、それが五回続いた所で漸く腹が減って、水が欲しいとも思えた。
声を出しても良いのか、望んで良いのか、戸惑った結果七回目にして欲求を伝えるとその人物はそれまでと同じく「シィ」と続けて宥めて、背中をさすった。
また白い長方形で白んで、今度は少し長い時間が空いた。八回目で要求通りに食べ物と水分が与えられた。その間、その人物が宥める時間も「シィー」という声もなかった。
「何故ここはどこだと聞かずにいたのですか」
阿戸は僅かに開いた窓を閉め、少しばかり圧の籠った声で言った。そこにはきっと、「自分ならば一番最初の時点でそう聞いた」という意味が込められている。
「なんででしょうね。混乱してたとか子供だったからだとか、色々自分にもあったんだと思います。なにも見えなかったから聞いていい相手かもわからなかったからとか。でも、それらを含んでも〝最初に安心を与えられたから〟というのもあるんだと思います」
「……拘束されているのにですか」
「はい。それは概ね正解でした」
「どの部分がですか」
「聞いてもいい相手かどうか、という部分です。そも結果は九回目でわかりました」
最初にその人物が現れてから九回目、実際の時間と日数がどれだけ経ったのかも、もうわからなくなっていた。
要求が通り、食事を与えられてから次のこと。
九回目も前八回と同じように人の気配が近付き、蝶番が鳴って長方形が白んだ。
けれどそこで行われたのは七回続いた宥めでも、八回目で初めて与えられた食事の続きでもなかった。
九回目の時に起きたことはその後も続いた。毎日でもなく連続もしていなかったと認識しているが、その記憶も確かなものではない自覚がある。
そこからは記憶が点ばかりでどこも線にはならなかった。
局地的になにかを覚えているだけで、なにがどうだったのか、どう考え続けたのかどうしてそうなのかも過程も詳しい状況も覚えていない。そうだったということしか、結果だけしか覚えていなかった。
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