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時はまた、数十年前に遡る。
ガンッ!!!
魔界の宮殿の大広間に、身体を壁に打ち付ける大きな音が響いた。
俺・東は目を剥いた。
普段は親友のように親しく、滅多に喧嘩をしないふたりが、言い争っているからだった。
エイメンが、ヴィクトルの襟を掴んで、壁にぶつけたのだ。
「どうして……! どうしてそんな、無謀なことをしたんだよ!!」
顔をこわばらせ、怒りというよりは不安を浮かべて、エイメンは怒鳴った。傍で見ている俺の身体まで、びりびり震えるような大声だ。
対するヴィクトルは、ぴくりと眉を動かした。落ち着いていたが、ほんの少しだけ、エイメンに怒鳴られていら立っているようだった。
先日のことだ。
奇花や他の天使が、孤児をみんなで育てているという妙な噂を聞いた。
冥界の生き物は、基本的に人間と関わることを許されていない。陰からさりげなく手助けをしたり、いたずらをしたりして、人間から正負の感情を生むことが仕事だ。
だがごく稀に、人間と関わってもなにか問題が起こることはないだろうと両界の頂点のどちらかが判断した場合、人間と接することができるようになる。そのごく稀なケースが、今回起こっているのだ。
大王さまからの命令を受けて、調査に行ったヴィクトルとスアンが持って帰ってきたのは、
「奇花がなんか、前よりも丸い感じっていうか、落ち着いてる気がする」
という、なんとも曖昧で分かりづらいものだった。
道端に捨てられていた少女を、奇花を中心とした天使たちが育てているというだけの話。
ただ、それはあまり良い報告でないことだけ、みんなは理解した。
感情に振り回されやすい奇花は、怒ると手がつけられないほど暴れる。なにをしでかすか分からない、殺人兵器になる。
奇花が以前よりも冷静になってしまうと、怒りに駆られてとんでもない行動を起こすことは減るだろうが、分かりやすく単調な攻撃をすることも減ってしまい、結局はこちらが不利な戦いになるだろう。
イブキがあの奇花と互角に戦えていたのは、奇花が馬鹿で、感情を制御するのが苦手だから、というのも大きい。頭が良く、人の弱みにつけ込むイブキは、奇花の弱点を的確につくことができる。力では全く敵わないからこその封印だった。
奇花の脅威を危惧したヴィクトルが取った行動は、問題の “天使に育てられた少女” を始末することだった。
しかし、これはやりすぎだった。
みんな止めたのだ。
激怒した奇花に殺される、と。
あの天使を怒らせたヴィクトルが、“痛い” だけで済むはずがない。
「何度も言ってるだろうが。奇花に痛い目見せてやろうって思ってやったんだよ」
言いながら、ヴィクトルは自分の襟を掴むエイメンの手を優しく握って、引き離そうとする。しかしエイメンは離さない。
「ッ……! てめえ、奇花の火をつけて、どんな目に遭わされんのか分かってんのかよ!? 確実に死ぬ!!」
さらに大きな声で怒鳴った。思わず耳を塞いでしまいたくなるくらいだ。
エイメンの声も手も震えている。
ハッとして自分の手を見ると、俺の手も僅かに震えていた。
ヴィクトルは仲間ではあるにしろ、友達ではないし、どっちかというと目障りで邪魔な存在だった。俺とエイメンの喧嘩にいつも勝手に割り込み、無理矢理終わらせる。俺の悪事を咎め、大王さまに告げ口する。仕事をしない俺を人間界に引っ張り出し、仕事をさせようとする。
なのに…………。
「死んでもいい。死ぬ覚悟も、痛めつけられる覚悟もして、やったんだよ」
「なんで!! なんでそんなことっ……!! オレたちがなんとも思わないとでも思ってやがんのか!!」
「それは……悪い。でも、もう決めたんだ」
「チッ……くそ!!」
顔を背けたヴィクトルを見て、エイメンはもう一度、ヴィクトルを掴んだまま壁に打ちつけた。
それから、息を切らして俺を振り返った。どうしようもない怒りと不安のやり場を、俺に向けた。
「黙ってねえで、お前もなんか言えよ! 東!」
「……なんで、俺が」
「てめえは、なにも思わねえのか!? いくら、嫌いだからって————!」
エイメンが俺を、鋭い、射抜くような目つきで見つめる。
その瞬間、俺のいら立ちも頂点に達した。
「なにを言えばいいってんだよ。もうなにも変わらないのに」
俺は寄りかかっていた壁から離れて、エイメンとヴィクトルを見つめた。
そうして気がついた。
俺もエイメンと同じように、ひどくこわばった表情をしていた。
いつも通りの表情にしようとしても、顔がうまく動かない。動かそうとするとどんどんくしゃくしゃになっていく気がする。
「天使に育てられた小娘も死んだし、奇花も、他の天使も怒ってる。俺らになにができるんだ? ヴィクトルを魔界に匿っても、そのうち天使どもが攻めてくるさ。そうしたら、みんな死ぬ。俺たちが今、なにをすればいいんだ。なにをしたって変わらない。状況は悪いまま」
俺を見て、エイメンは言葉を失った。ヴィクトルも驚いて、「お前……」と呟いた。
自分がどんな顔をしているのか、安易に想像できる。俺は震える声で、独り言のように言いながら、ふたりに背を向けた。
「ふざけるなよ」
俺は立ち去った。
俺の消えた広間に、不気味な沈黙が漂った。
空気が重たくて、うまく息が吸えない。
「ごめんな。責任は全部、オレがとるから」
それなのに、不思議と穏やかな表情をしたヴィクトルが、力の抜けたエイメンの手を、自分の襟から離す。
そして、肩をぽんと叩いて、どこかへ歩いていった。
取り残されたエイメンは、ヴィクトルの姿が消えた、目の前の壁を見つめる。
その瞬間が、凄まじい痛みを彼にもたらした。
「あああああああああっ……!!」
締め付けられるような悲鳴をあげて、エイメンは崩れ落ちた。
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