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廃屋のドアに触れると、今はもうするはずのない二人の汗の匂いがした。
「彼方」
泣くようにすがる貴方が見える。男にしては細い体、枝のような手足、半端に長い真っ直ぐな髪。貴方の体はいつ見ても、百日紅の木を思い起こさせる。あるいは、崖っぷちにたった一本で立つ物憂げな柳の木を。
「もっと強くして」
熱のこもった声で、貴方は彼に迫る。貴方が百日紅なら、彼は楡の木だ。壮健に立ち、青々と葉を茂らせ、それでいて静かに優しく佇む。そうしていつも、貴方の想いにそっと寄り添う。
「うん」
そう言って静かに、彼は貴方のそこに腰を沈める。時間はたぶん朝。割れた窓から陽光が降り注いで、壊れかけたベッドの上で愛し合う二人を鮮やかに照らしていた。
あ、と貴方が声を漏らす。泣くように。あるいは涙をこらえるように。そんな貴方を彼は後ろから包むように抱き、貴方の顔を振り向かせて、口を閉ざすようにキスをする。
「ん」
声にならない声が漏れて、貴方の震えるそれから零れた体液が、糸を引いて古びたシーツに落ちていく。唇を離して吐息を零し合い、二人は互いの名前を呼ぶ。
「彼方」
「一」
そうして、二人の情事は続いていく。
この盛り上がり方だと、おそらくあと二、三回はするのだろう。
ドアを開けると、そこには先ほど見た映像よりさらに荒廃した部屋があった。
もちろん、中には誰もいない。
私は部屋を見渡した。足の折れた机、割れて散乱した食器や花瓶、壁紙の半分剥がれた壁、埃をかぶった書棚の本。そうして、完全に壊れているベッドを見て、私はやれやれと溜め息をつく。壊れかけたベッドの上であんなに激しくするから。怪我をしていなければ良いのだけど。
そう思ってベッドに触れたけれど、何のビジョンも現れなかった。この能力は気まぐれだから本当に困る。
それはサイコメトリーというのだと、教えてくれたのは貴方だったね。
地下の暮らしで、絶望的な世界の中で、貴方の優しさは希望だった。
何の因果か、生まれた時から世界が滅んでいた私たちは、やがて親さえ奇病で失い、それでも必死に生きるしかなくて、大人が誰もいなくなっても、子供たちだけで懸命に命を繋いだ。
大人はみんな、奇病で死んでしまった。発症すると体が次第に動かなくなり、食事も受け付けなくなって、衰弱して死んでいく奇病。子供も何人かそれで死んだけど、私たちは奇病にかからなかった。私たちの世代の何割かは、胎内で免疫ができたのだろうと、最後の大人が死ぬ前に言っていた。
貴方は私より三つ年上で、本をたくさん読んでいて、物知りで、いろんなことを教えてくれた。
「命」
と、貴方が私を呼ぶ声が好きだった。
叶わない初恋は、おそらくまだ続いている。
あの日、貴方が地上に出たのは、地下の本を全て読み終えたから。
「別の地下に行ってみたいんだ。ここ以外にも、地下に人が住んでる場所があるって、本に書いてあったから。もしかしたらもうみんな死んじゃってるかもしれないけど、とにかく、一度そこに行ってみたい」
私は止めた。地上は荒れ果てていて、地下より遥かに速い速度で奇病が進行すると、大人に教えられていたから。仮に免疫があって奇病にはかからないのだとしても、荒廃して住む人もなく、食べ物や水もどれほどあるか分からない地上になんて行って欲しくなかった。
「大丈夫だよ」
貴方は笑って言った。
「食べ物や水も少しは持っていくし、どうしようもなくなったらちゃんと帰ってくるから」
だけど、貴方は帰ってこなかった。何年待っても、貴方は帰ってこなかった。
だから私も地上に出た、という訳ではない。
単に、地下の暮らしはもう限界が近かったのだ。食べ物も水も無くなりかけており、地上にそれらを求める必要があった。地下の人口はだいぶ減っていたから、今すぐ足りなくなるということはなかったけれど、このままだとあと一年はもたないだろうと言われていた。
地上のどこか、あるいは別の地下から、誰かが食べ物と水を持ってくる必要がある。私はそれに手を挙げたに過ぎない。
ただまあ、正直なところ誰も、地上に行った子が何かを持って帰ることを期待してなどいなかったろうと思う。勇敢なる探索者などと言って送り出されたけれど、実情はほとんど口減らしのようなものだった。実際、私の前にも何人か地上に出た子がいたけれど、誰一人帰ってはこなかった。
だから多分、私ももうあのとき、帰るつもりなどなかったのだろう。
地上に続く階段は長く、足がくたくたになったけれど、地上への扉に鍵はかかっておらず、これでいいのかと思うほどあっさりと、私は地上に出ることができた。
雪が降っていた。
白く、冷たく、静かな世界だった。初めて見る本物の雪。本や大人の話でしか知らなかったそれが、音もなくひらりひらりと舞い降りて、辺り一面に薄く積もっていた。
手ですくうように受け止めたひとひらが、すぐに溶けて水になったとき、不意に、遠く雪の向こうに、貴方の細い肩が揺れた。
はっとした。それは一瞬だったけれど、貴方が歩いた方向を教えてくれた。当然、私はその方向へ歩き出した。どうせ行くあても何も無いなら、このまま貴方の足跡を追っていこうと、そのとき決めた。
以来、この気まぐれな能力頼りの追跡は、今のところ何とか貴方を見失うことなく続けられている。
随分遠くまで来たと思いつつ、割れた窓から外を眺める。ここは海の見える丘の上で、はるかな水平線に太陽が近づきつつある。もうすぐ夕方だ。
食べ物や水には、思いのほか困らなかった。地上には貯蔵庫のように食べ物が蓄えられた場所がいくつかあり、貴方の跡を追っていくとなぜかそれをよく見つけられた。まるで貴方はその場所を知っていて、定期的にそこを訪れるようにしているようだと思った。
貯蔵庫の食べ物を地下に持って帰ることも頭をよぎったけれど、何も考えず貴方の跡を追ってきたため、とうに帰り道が分からなくなっていることに気が付いた。でも、後悔や残念は少しも無かった。それほどあの地下は、私にとってはどうでも良かったのだろう。思えば地上に出てから、私はただの一度も、地下に帰りたいと思ったことはなかったのだ。
怖いのは奇病にかかることだけだった。何度か死体に遭遇したことがあり、そのうちのいくつかは触れると死ぬ前の映像を見ることができたが、そのすべてが、あの奇病を発症して死んでいた。
私がまだ発症していないのは、おそらく幸運でしかないのだろう。貴方も、まだ発症せず生きているだろうか。彼と一緒に。
彼が現れたのはいつだっただろう。
貴方と彼がいつどこでどのように出会ったのか、私は知らない。ただあるときから、貴方を見るとき、貴方の隣にはいつも彼がいるようになった。
彼は貴方より体ががっちりしていて大きく、ぼさぼさの髪で目が隠れており、無口だがいつも優しい微笑みを浮かべていた。貴方たちはいつも仲が良さそうで、独りの時には見せなかった笑顔を貴方は良く見せるようになり、私にはそれがとても嬉しかった。
初めて二人がキスしてるのを見たときには、さすがに少し驚いた。
でも、白い頬を赤く染めて唇を寄せる貴方がとても可愛くて、それを受け止めつつ貴方の背に手を回す彼にさえ好感を持った。
もしこれが、貴方と誰か女の人との間で起こっていたならば、私はその相手に好感を持てただろうか。
それから、二人を追うのがますます楽しみになった。キスは次第に日常になっていき、やがて二人はもっと先に進みだした。体に触れ、抱き合って、相手の腰の前に手が伸びるようになった。
初めての行為を見たときには、私も興奮してどきどきした。貴方の裸をとても綺麗だと思ったし、初めて見るその表情、頬を真っ赤にして恥じらいながらも快感に浸るその、切なくも恍惚とした表情を見られて、嬉しかった。
私の知る貴方は、聡明で、どちらかというと大人しく、あまり感情を表に出さない人だった。でも、彼の前で貴方は全く違った。表情豊かで、無邪気に彼に甘えたり、せがんだり、恥ずかしがったり、感じるときには口を大きく開けて叫んだりしてた。荒い息をして、汗まみれで、細い体を一生懸命に動かして、きらきらと輝いていた。楽しそうに。そう、とても楽しそうに。
そうして、色々なプロセスを経て、最後に彼がぎこちなく、でも確かに貴方の中に入ったとき、私はかつてない高揚と満足を覚えたのだった。
良かった。本当に良かった。貴方は愛を知ったのね。
この孤独な地上で、何も無い世界で、それを得られたことは奇跡のような幸いだ。
本当に良かったと、貴方と彼が初めてをしたその場所で、私は独り静かに涙を流した。
その後も私は、貴方と彼の足跡を辿った。二人の睦み合いや情事を見るのも次第に慣れていった。だって多いんだもの。初めてをしてからというもの、毎日毎夜やってるんじゃないかと思うほどに、貴方のビジョンは彼とのそれであることが増えていった。
まあ、見えるのは私の能力によるものなので、私が心の底でそれを見たいと欲求していることも関係してはいるのだろうけど。
「……まあ実際、見て楽しいものなんてそれくらいしかないもんなあ」
海に沈む夕日に向かって、私は独りごちる。だって、この地上には本当に何も無い。ただ荒れ果てた廃墟が、どこまでもどこまでも広がるだけ。この孤独で空虚な旅路の中で、貴方が彼と愛し合い、激しい熱を交わすその姿だけが、私に喜びと、生きる活力を与えてくれていた。
「私は、何をしたいんだろ」
貴方の足跡を追っているのは、いつか追いついて貴方に会うためだと、いつの間にか私は理由をつけて納得していた。だけどそもそも、地上に出てから一度だって、貴方に会いたいと思ったことがあっただろうか。
私は溜め息をつき、壁に背を預けて、壊れたベッドに寄り添うように床に座った。窓から差し込む斜陽は、炎のように赤くなっていき、やがて弱まり消えるだろう。
今夜はここで眠ろう。
壊れたベッドからぼろぼろのシーツを取り、軽く埃を落として体に巻く。これでまた、貴方の夢が見られるだろうか。
そのシーツから、精液の匂いはもうしない。
夢を見た。
貴方がいる。もう見慣れたその裸体。相変わらず百日紅の枝みたいに、細くて滑らかで、かたそうな腕ね。でも、私、そういえば、百日紅って見たことあったっけ。
貴方が私を見る。昔みたいに。ああ、そっか、それも貴方が教えてくれたんだったね。百日紅の木、本の中の写真を見せてくれたっけ。それで私、ああこの木、なんだか貴方みたいって、そう思ったんだ。
そっか、それだけじゃなかったね。貴方から教えてもらったこと、他にもたくさんあった。私、貴方に憧れて、それからたくさん本を読んだの。貴方ほどではないけれど。
思い出すと懐かしいね。私たちが子供だったころ。
そうね、私たちは子供だった。でも、それじゃあ、今の私たちは?
不安に体を抱こうとして、手が胸に触れる。あれ、私の胸、こんなに大きかったっけ?
いつの間に、こんなに大きくなったっけ?
「命」
貴方の声がした。耳元で。大好きな声だった。いつの間にか貴方は私のすぐ後ろにいて、そして腕が、その腕が、私の前に回ろうとする。
「命」
声。大好きな声。私を抱こうとするその腕も大好き。でもあれっ、そうだっけ? 「こう」だったっけ? 私の見たい夢って、「こういうの」だっけ?
「違う」
言った。そうじゃない。何か分からないけど、とにかくこれじゃない。だから私は振り返り、貴方の裸体を突き飛ばす。
「違う」
繰り返した。そう、違うの。貴方が抱くべきは、
「そっち」
突き飛ばされた貴方を受け止める大きな体。厚い胸板、ぼさぼさの髪。貴方は涙目で、彼に寄りかかってその顔を見上げる。
「そっちでしょ」
そう言うと、二人はおずおずと、互いの背に腕を回した。
「彼方」
「一」
二人の唇が近づき、重なる。
安心した。それと同時に寒気がした。自分の体を抱こうとして、また胸が当たった。
何これ。
もう貴方と彼は、私など存在しないかのように二人の行為を始めている。私はその音を聞きながら、自分の乳の大きさを確かめるように、その二つの膨らみに両手の平をそっと当てた。
ぞくりとした。
私は何になったのだろう。
跳ね起きた。
「う……」
朝日が眩しい。背中が痛い。どうやら随分長く寝てしまっていたらしい。
嫌な夢を見た気がする。いや、結構良い夢だったかもしれない。どっちだろう。良くは覚えていないけれど、何か愛しいような気持ちと、背徳感に似た興奮と、渇くような自己嫌悪がやけに重く残っていた。
「はあ――あっ」
重い気分を振り払うように、欠伸をして背筋を伸ばす。いずれにせよ今日もまた、私はこの何も無い世界を生きなければならない。
生きなければならない?
違う。
もし今私がここで死んでも、誰がそれを知るだろう。知らなければ当然、悲しむ人もいない。地下の子達だって、もう私のことなどとっくに忘れているに違いない。
私が生きている必要など、この世界のどこにも無いのだ。
知っている。私は目をこすって立ち上がった。
それでも、まだ生きたいと思う。貴方と彼をもっと見ていたいから。笑い合う貴方も、求め合う貴方も、寄り添って眠る貴方も、私はもっと見ていたい。たとえそれだけが理由でも、私はまだ生きたいと思う。
もしも、貴方のことが見えなくなったら、私は死を選ぶだろうか。
そんなことを思いながらベッドにシーツを置いたとき、不意に貴方の匂いがした。
「彼方」
貴方が彼の名を呼ぶ。これは夜。前に見たのと同じ日だろうか。まだ壊れていないベッドに、二人が並んで寝ている。
「なに?」
彼は眠そうに、貴方に体を向けた。
「好き」
そう言って貴方は彼の髪を撫でる。癖のある、柔らかそうな髪。彼は微笑み、同じように貴方の髪に触れた。
「うん」
二人は目を閉じ、やがて彼だけが寝息を立て始める。貴方は目を開けて、彼の胸元に額を寄せた。
「おやすみ、彼方」
どうしようもなく、私は貴方が好きだ。もしいつか、貴方の傍で眠れる日が来たなら、それはそれで、とても幸せなのだろうと思う。
だけど、それと同じくらいどうしようもなく私は、貴方が彼を好きなことを、愛しいと思ってしまっている。
どうしてだろう。
私の初恋は、どこへ向かおうとしているのだろう。
「ねえ」
現れた別のビジョンで、貴方はベッドに座っていた。これは、次の日の朝だろうか。それとも違う日だろうか。貴方は本のある所には何日か留まる傾向にあるので、この廃墟にも数日いたのかもしれない。
「彼方は、行きたいところってある?」
貴方が問うと、まだ横になっていた彼はゆっくりと身を起こした。
「ない」
「じゃあ、行きたくないところは?」
彼はしばらく考えるように首を傾げたあと、言った。
「一のいないところ」
「……バカ」
貴方の方からキスをした。
よくもまあ、朝からここまでいちゃつけるものだと感嘆する。もうだいぶ長いこと一緒にいるだろうに、飽きもせず。まあ良いことなのだろうけど。良いこと、うん、とても良いことだ。ごちそうさまです。
それにしても、今日は朝から能力の調子が良いのか、立て続けにビジョンが見える。変な夢を見て覚醒でもしたのだろうか。今なんて、私は部屋の中に立っているだけで何にも触れていないのに、それが見えた。
この分だと、貴方と彼の次の行き先を知るのにも、そう時間はかからなそうだ。
「うわあっ!」
木が軋んで折れるような音とともに、貴方の驚いた叫び声が聞こえた。ああ、ついにベッドが壊れたのか。二人は大丈夫かな。
見ると、舞い上がった埃の中で、貴方が四つん這いになっている。ベッドの床板が折れて、薄い敷布ごと下に落ちたようだが、それほど高さもなかったからか、咄嗟に手をついたらしく無事なようだ。
「あっ、ぶな……」
貴方がほっとしたように言う。そして彼はというと、その貴方とまさに繋がっていた。
私は失笑を禁じ得なかった。どうやらベッドは最悪のタイミングで壊れたらしい。本当に、よく抜けなかったものだ。
貴方は四つん這いの姿勢で、後ろで彼と繋がったまま、僅かに震えながら話しかける。
「彼方、だいじょう、ぶ、って、えっ? ちょ、えっ、まさか……」
「ごめん、いった。急にすごい動いて締まるから」
「バカ!!」
まあ……これはこれで。
何にしても、二人とも怪我がなくて本当に良かった。本当に、うん、これはこれで。
楽しいなあ。
貴方と彼とのやりとりを、こうしてずっと見ていたい。
いつか、貴方と彼の旅が終わるまで、私は見届けられるだろうか。
これまでの迷いのない足取りから察するに、貴方にはどこか目指す場所があるような気がする。それがどこなのかは分からないけれど。もしかしたら以前言っていた、別の地下の場所が分かっているのかもしれない。
いずれにせよ、私はただ貴方の幻についていくだけだ。
でももし、この旅の先で、貴方と彼が安住の地を得ていて、今もそこで暮らしているのだとしたら。このままいけば私もやがてそこへ辿り着き、貴方に出会うことになる。
そのとき、私は何て言おう。「あなたたちの二人きりの時間をいろいろと覗き見ていました」なんて、言えるはずもない。
そもそも、もしその地へ辿り着いたとしても、私は足を踏み入れることができるのだろうか。貴方と彼の中に入っていく勇気が、私にあるだろうか。
あるいは、それを望む勇気が、私にあるだろうか。
ぎい、と古びたドアの開く音がした。
見ると、開かれたドアの外から、旅支度を済ませた貴方がこちらを見ている。それと同時に、今そこにある閉じたドアも透けて見えていた。現実と能力の映像が重なるようにして見えるのは初めてだ。
「さあ、行こうか」
貴方が言う。
知っている。その言葉は私に向けられたものではなく、
「うん」
旅支度を済ませた彼が、私の後ろから私を通り抜けて貴方に歩み寄っていく。
私も二人の行く先を確かめるべく、彼とともにドアの外に出る。もちろん、私は閉まっているドアを開けて。
二人は仲良く肩を並べて、海の方へ丘を下っていく。
「一、海、泳げるかな」
「ここの海は、たぶん泳げると思う」
「楽しみだね。最近暑くなってきたし、ちょうど良い」
「ああ、でも、お互い初めてだから、気をつけて泳ごうね。溺れないように」
「うん」
その会話を聞いた私はもちろん、高まる期待に胸の鼓動が抑えられない。
海。海だって。遠くに眺める程度にしか見たことはないけれど、砂浜があって、波が打ち寄せて、水しぶきがきらきらとすることくらいは知っている。二人はそこで戯れようというの? 濡れるからきっと服は脱ぐんだよね。それで、裸で、水を掛け合ったり、手をつないで水に潜ったりするの? そうしたらきっと、ねえ、どうせまた盛り上がって、やっちゃうんでしょう?
そんなの、見たいに決まっている。
私は慌てて廃屋の中に戻り、自分の荷物を急ぎ背負うと、二人の歩く方へ向けて駆け出した。
海へ。二人のいる海へ。
貴方と彼の姿はまだ消えておらず、笑い合いながら丘を下っていた。その先には、海沿いの町の廃墟と、陽射しにきらめく海が見える。
私も貴方たちに追いつこうと、一歩駆け出したとき、
「あ……」
雪が降っていた。
これは、現実の雪だ。
白く小さな欠片が、ひとつまたひとつと、弱々しく目の前に舞い降りる。
その雪の中を、二人の映像は止まることなく進んでいく。
知っている。知っていたはずだ。貴方と私の季節は違うこと。
私の足は止まっており、貴方と彼の姿は次第に薄れ、やがて消えた。辺りには、ただ静かに降る雪だけが積もっていく。
知っていたことだ。だから。
私は歩き出した。海へ。それでも貴方を見るために。
ごめんなさい。たとえ許されなくても、貴方の過去を盗み見ることでしか、私はこの世界を生きていけないの。
そうして私は、もしいつか貴方の居る場所に辿り着いたとしても、決して貴方には会うまいと、心に決めた。
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