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世界で一番美しい場所
「朝日が撮りたいんだけど、どっかいい場所知らね?」
大学生活最後の年末年始を実家で過ごしていた僕は、そんな電話を寄越し、中古のジープに機材を積んで東北の片田舎までやって来た先輩と、ほとんど二年ぶりに再会した。
先輩が在学中は、ひとり上京した僕を休みが合う度にこう言う撮影旅行に連れて行ったけれど、それは大抵しっかり目的地まで決めている旅行で、だから今回、行き先を僕に委ねてきたのは意外だった。
とは言え、まだカメラにも詳しくない僕が案内したのは、駅から三十分ほど車を走らせた海岸線。
時間はちょうど空が白み始めた頃だった。
特に撮影スポットと言う訳でもないのに、先輩が満足気に防波堤に三脚を立てたのを見て、僕は砂浜に降りる。
一度ポイントを決めた先輩は長いことを、今までの付き合いでよく知っているからだ。
付き合い、だって……。
自分で言って笑ってしまう。
高校二年の春から大学二年の冬まで、僕らは付き合っていた。
いた、と言うのは当然過去形なワケで。
別れの言葉は何だったかな。
『あなたを待っているくらいなら、ひとりの方が辛くないんです』
確かそんなものだったように思う。
僕が彼を名前で呼ばなくなり、彼も僕を名前で呼ばなくなって、二度目の冬が来ていた。
◆◆◆
最後のインターハイの後。引退と同時に、競技としてのスポーツはやり切ったと言った先輩は、スッキリした表情だった。
そして大学に入るや、毎日触っていたボールをカメラに持ち替えて、あちこち飛び回るようになった。
二年後、同じ大学を選んで転がり込んだ狭いアパートは、先輩が撮った写真で溢れていた。
全国各地で集めた星の写真を天井いっぱいに貼り付けて、プラネタリウムだ!と胸を張った先輩に、不覚にもときめいてしまったのを覚えてる。
でも先輩が一般企業への就職を蹴って、著名な写真家に弟子入りした頃から、雲行きが怪しくなった。
卒業を決めて講義と言う枷が外れた先輩は、師匠について海外に飛び出して行った。
ハードな部活で身につけた体力とタフさ、それに主将を務めた行動力は、十分師匠に気に入られるものだったらしい。
最初は、特に気にならなかった。講義の多い一年生の間は僕も忙しかったし、そもそも付き合い始めの頃は東北と東京での遠距離恋愛。会える頻度は大して変わらなかったから、年に数回でも先輩が帰って来る場所だってことの方が、重要だった。
それでも人間って言うのは勝手なもので、二年生になって少し時間ができると、本人がいないのに彼の写真だけが増えていく部屋が、急に寂しくなった。
ついて行くなんて言えないくせに、待っていることにも耐えられなくて。
でも、先輩の写真が好きだから、置いて行かないでなんて死んでも言えない。
一方的に積もる先輩への思慕は、あっと言う間に僕を押し潰しそうなほどに膨らんで、とうとうその冬に決壊した。
卑怯な僕は全部を先輩のせいにして別れを切り出し、先輩はただそれを受け入れた。
『そっか、ごめんな』と笑って。
それで僕らは別れた。
◆◆◆
朝日が完全に水平線から姿を現した後、呼び戻されて防波堤に上がった僕に、先輩は車から持ってきた缶のココアを差し出した。
「……どうでした?」
冷たい車のリアバンパーにもたれながら、甘いココアで唇を湿らせてから尋ねる。
「何が?」
「行ってきたんでしょう?“世界で一番美しい場所”」
「あぁ…」
カメラを覗いて画像を確認しながら頷く先輩は、十二月の中旬から年末まで、ヨーロッパへ飛んでいた。
「スペインでしたっけ」
そこはスペインの砂漠地帯。
光害の全くない場所で撮られた夜空の写真を、“世界で一番美しい場所”だと、彼が後の師匠となる人物の写真集から見せてくれたのは、まだすれ違いもなかった頃。
それまで星にはあまり興味なかったけど、夜空に散りばめられた小さな光の海と、それを映す湖はしばらく頭を離れないほどの美しさだった。
先輩には黙っていたけど、その足で書店をいくつも回って買い求めた同じ写真集を、いまだにいつでも手が届く場所に置いている。
あえて引き伸ばさず、L判に収まった小さな楽園に立って、自分の手でシャッターを切るのが夢だと、先輩はずっと言っていた。
今までは師匠が行くところへ同行するため、自分の希望する場所にはなかなか行けなかったのを、今度ばかりは拝み倒したと胸を張っていた。と言うのは、共通の友人からの情報。
「んー、イマイチだった」
「天気がよくなかったんですか?」
相手は自然だから、当然アテが外れることもあるだろう。
でも、先輩が言ったのはそう言うことじゃなかった。
「確かに凄かった。あんなに空気が透明で星の邪魔をしない場所は、そうないだろうな。……でも、何かちげーんだ。何枚撮っても、全然納得できなかった」
先輩が肩を竦めた。
背中を向けていても、ちょっと苦い顔で笑っているのが分かる。
「そのまま白状したら、師匠に笑われたわー。『お前にとって、ここが世界で一番じゃなくなったってだけのことだろう』ってさ」
「……でも、ずっと行きたいって言ってたじゃないですか」
僕らは、嫌い合って別れた訳じゃない。
僕は僕の我儘で別れ話を持ち出したし、先輩も結局は自分の夢を選んだ。
望んだカタチに収まったはずの僕らは、互いに満たされない心を抱えて二年間を過ごしてきたらしい。
「世界中を渡り歩いて、今まで一番綺麗だと思ってた場所に立って、次に何を撮りたいかって聞かれてさ。答えは簡単だった」
しゃがんでいた膝を伸ばして、太陽を背にした先輩がゆっくり振り返る。
名前を、呼ばれた。
それだけで喉がひくついて、うまく返事ができなかった。
どうして、この人を手放してしまったのだろう。
どれだけ遠くにいても、心まで離れることなんて、とっくにできなくなっていたのに。
「お前を撮りたい。お前と一緒に見た景色を撮りたい」
ざり、と靴底がコンクリートに擦れて、先輩が一歩、距離を詰める。
たった一歩で、もう手が触れた。
「だからもう一度、俺とやり直してくれねーかな」
高校時代から変わらない大きな先輩の手は、僕の手首を掴んで逃してはくれなかった。
「僕が、勝手に……別れてって…言ったんです」
「でも俺は繋ぎ止める努力をしなかった。だから、お互い様だろ?」
先輩がもう一歩踏み出して、僕の頬は彼のフードの柔らかいファーに押し付けられた。
ただ立っているだけの背中に腕が回って、苦しいくらいの力で抱きしめられる。
心臓がギュウギュウに絞られるみたいな錯覚に、熱い息を不恰好に吐き出すのが精一杯だ。
生まれたての太陽が、視界の中で滲んでいく。
ああ、きっと今この場所こそが。
世界で一番美しい場所。
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