寡黙なる探偵への道

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 彼は店を出てからそのまま階段へ向かい、憂鬱な雰囲気を漂わせながら階段を上っていった。私も店から出るのは遅れたものの、彼の歩みが遅いお陰で、直ぐに追いつくことが出来た。彼の背中からは当に悲壮感が溢れ出ていた。 「…この先に何かあるのですか?」  ついそんな事を聞いてしまった。いや、聞かずにはいられないだろう。このまま進むのは私自身も不安である。彼は私の問いを聞くなりぐるりとこちらを見て、 「いやなに、3階には事務所があるのだよ。そこで依頼の手続きなんかをやるのだ…。」  彼は困ったように眉尻を下げ、肩を揺らしながら答えた。  そうこうしている内に3階の扉前に着いた。そこで彼は一瞬ぴたっと動きを止め、それからドアノブに手を伸ばした。ガチャリという音を立てながら扉は開いた。先程から動作が遅いというか慎重というか…これから何が起こるのかと不安を抱えていたところに 「遅かったじゃないか!どこに行ってたんだよぉ!」  という雷も一驚な声が轟いた。声を掛けられていない私ですら踊場から転げ落ちそうだった。 「いや、なに、その、依頼人と出くわしてね…。」  事務所の奥から現れた人物に対して蚊の鳴くような声で応対している彼の姿を見て、なるほどこれが原因かと得心が行った。背中越しに中を伺うと、そこにいたのは彼と同じ位の年齢のやや大柄な女性がいた。雷の発生源はどうやら彼女らしい。 「全く、さっき依頼が終わったばかりだってのに、嫌に商売上手だねぇ!あんたは!」  と、痴話喧嘩のようなことが始まった。いや、彼は「ああ」とか「うん」とか「はい」しか言っていないから喧嘩ですらないか…。  1分少々だろうか、それぐらいの時間が過ぎ、彼の姿が最初より1/4ほど小さくなったように感じ始めた頃、漸く彼女は私の存在に気付いたらしく、彼に一言落とした後に、私を招き入れた。  事務所の中に案内され、彼女から依頼に関する事項について伺う流れになった。彼はというと、事務所の机でせっせと書類を準備している。 「あいつは私の旦那でね。私が所長で旦那が探偵なのさ。」  私の視線を察したのか彼女はそう説明した。人のことを言えるほど夫婦について知らないが、中々に仲を想像し難い二人だと感じた。 「ここに連れて来たってことは、依頼するんだろう?」 「そうですね。あらましは旦那さんに話したのですが、もう一度話しますか?」 「いや、あいつが聞いてるならそれで良い。探偵業はあいつの担当だからね。なぁ!受けるで良いんだろう!?」  随分な声量で彼に呼び掛け、呼び掛けられたら彼はキリリと表情を変え素早く頷いていた。 「なら話は早い、経営業があたしの領分だからねぇ。さっさと進めるよ。」  私はそれから彼女の説明を聞き、書類にサインし、連絡方法などの細かい話をした。その際、彼は一言も喋らず、彼女に資料を渡したり、頷いたりしていた。  ここにきて私は噂の意味に思い至った。 何がどうなって“喋らない探偵”なんて噂になったのかは謎であるが、私以前の依頼人も私と同じ筋道を通ったとするならば分からないでもない。しかし、まぁ今此処にいる私には詮無いことである。  噂になる程の腕前であることだけを信じて私は依頼をこの“喋らない探偵”に託そう。そう“喋らない探偵”、この尻に敷れた探偵に。
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