2人が本棚に入れています
本棚に追加
裸足で来たのは間違いだったかも、と彼女は思った。一度宿舎に戻って靴を履いてこようか。振り返った。
戻っていたら間に合わないかもしれない。余裕を見て、出てはきたけれど。
結局、彼女は裸足のまま、朝の、雨があがったばかりのぬかるんだ地面を歩き始めた。泥の冷たさが、足をつたって、心まで冷えそうで、やっぱり失敗だったかも、と思う。
「ママ、どこいくの」彼女の腕に抱えられていた子どもが聞いてきた。
「いいところ」
「どこ」
「いいところ、よぅ」彼女は子どもの耳元へ、ささやくように、楽し気に聞こえるように言った。
楽し気に。本当にそうなら、いいのに。
「パパは」
「あとで来るから大丈夫」
裸足だったのは、少しでも目的地へ着くまでの時間稼ぎをしたかったのかもしれない。いつもと違うことをするから、何かを自由にしたかったのかもしれない。
宿舎を出るとき、今日は裸足だ、と思いついたのだ。
抱いている子どもの、小さな足の指をさすった。
「ちょっと、降りて」
「やだ」
「ちょっとだけ」
彼女は子供をそっと降ろした。子どもには、ここでの地面の感触を、記憶に残してほしかった。
彼女の足跡の横に、小さな足跡がついた。
ああ、だから私も、裸足で歩きたかったんだわ、と彼女は思い当たった。
「だっこ」
「おいで」
彼女はまた子どもを両腕に抱えて歩き出した。
「歌、歌ってあげようか」
「うん」
彼女は自分の故郷で歌われている歌を、低い声で、それでも子どもと目を合わせて、微笑みながら口ずさんだ。
……この子があとでこの歌を聞いたら、ここを思い出すかしら。
二、三曲短い歌を歌っている間に、目的地が見えてきた。
赤いごつごつした砂岩が、なだらかな丘陵をつくっている。
その丘陵のふもと、目の前の開けた地面には、真っ黒な胴体の、大きな筒がある。何人かの人が、筒の横にいて、そこだけ口を開けて白く輝いている部分から、出入りしているのが見えた。
彼女はまた後ろを振り返った。今なら、この子と宿舎に帰れる。
「ママ」子どもが黒い筒を指さした。「ママ、おっきいふね」
何が一番いいのか、ここにきてわからなくなった。
いや、一番いい方法はわかっている。私がそれをする踏ん切りがつかないだけ。
前にも、後ろにも行けなくなった彼女を、筒の横にいた人影が呼んだ。
「ヘイリー、こっちよ!」
その声に操られるように、ヘイリーはゆっくり筒に向かって歩き出した。
「来ないかと思ったわ。……なんで裸足?」
「なんとなく」
「ヘイリーらしい、ってば、らしいわね」
大きな筒はかすかにぶうん、という機械音を立てている。
「こういう音、久しぶりに聞いた」
「ここにいると、機械は使えないから…不便でしょう」
「慣れれば。定期的に補給もくるし」
どうでもいい会話をお互いしながら、本当の目的を先延ばししている。
「さてと」それが、合図だった。「ヘイリー、いいのね」
「ええ。ええ、いいわ……。ここでは、ミアを治す十分な医療設備はないし……進行性ではないけれど、あと一年、ここに置いとくのはさすがに不安だし……私が一緒に帰れればいいんだけれど、許可が下りないし」
「お役所仕事って、ほんと」
ヘイリーは腕に抱いていた子どものおでこに自分のおでこを合わせた。「ミア、愛してる。病気、ちゃんと治すのよ。おばあちゃんのいるお星さまに帰って。おばあちゃんの言うことをよく聞いて。ママは、すぐ行くから」
様子を察したミアが泣き始めた。「ママ、どこいくの」
「どこも行かない。ママ、ここでもう少しお仕事があるの。すぐミアのところへ行くから、大丈夫」
「あなたがこっちに来るまで、毎日ミアのビデオ撮って、ストックしておく」
「ありがとう。……お願いね、ノーチャ」
ヘイリーはミアのおでこにもう一度自分のおでこをくっつけると、ノーチャの腕に抱かせた。「やだ、ママといく! ママ!」
「泣かないのよ、おばあちゃんに、よろしく」
ノーチャの腕に抱かれて、自分に手を精一杯伸ばして、叫ぶように泣きながら筒の中へ消えていく娘を見ながら、ヘイリーは自分に言い聞かせた。
この星を調べる任期はあと一年。一年と少しの辛抱。そしたら、元気なあの子に会える。ヘイリー、あんたが我慢しないと。
機械の声がした。
「間もなく本船は出発します。ご搭乗以外の方はお下がり下さい。出発の際、若干の重力波が発生することがございます。危険ですので……」
ヘイリーは黒い筒からゆっくり離れた。ひときわ大きな、ぶうん、が一度聞こえた。振り返って見上げると、筒はスピードをぐんぐんあげ、太陽を黒い胴体に一度きらりと反射して、雨上がりの濃い青の空の彼方へ吸い込まれていった。
空っぽになった両腕を何度かさすって、ヘイリーはもときた道を、遠くに見える研究者用の宿舎に向かって歩き出した。
本当に、これで良かったのかしら。母星では大きな国どうし、いがみ合って。もし戦争になったりしたら、本当にこんな星まで、また迎えが来るのかしら。本当にあと一年なのかしら。やっぱり一年ミアに我慢してもらって、一緒にいた方がよかったかしら。
……ミアの顔を見たのは、これっきり、なんてことにならないかしら。
宿舎の方から子どもの声がする。お隣のベルデさんとこの子どもたちが泥をかけあってきゃあきゃあ騒いでいる。
宿舎の向こうの地平線には、白い満月が沈みかけている。この星の月はひとつ。さびしいわね。
ふっと頭をよぎった考えに、ヘイリーはまた両腕を寒そうにさすった。
……もし迎えが来なかったら、私たちはこの星で子孫を残していくのかしら。
振り返った。筒に向かったときの自分の足跡がまだ泥の上に残っていた。ところどころについた、ミアの足跡も。
ヘイリーは、故郷の子守歌を歌いたくなった。
低い歌声が風に混じって、大気に広がっていくところを想像する。大気圏を通過して、母星へと向かい始めた筒を思う。
ここは遠い、遠い国。
目をこすってるのはだあれ。
眠くなったのはだあれ。
夢をみたくなったのはだあれ。
ここは遠い、遠い国。
夢を見ているのはだあれ。
夢を見ているのはわたし。
夢を見ているのはあなた。
ここは、遠い、遠い……。
このさきは、遠い昔、遠い星からきたヘイリーの、足跡だけがしっている。
最初のコメントを投稿しよう!