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野原で
友未 哲俊
1 デベン
日の落ちかけた山道は月明かりに照らされて意外に明るかった。未名(みな)は悲しみのままに、見覚えのない緩い坂道を辿って行った。ひどく叱られて、家には帰れない。片側には造成され残った低い林が茂り、もう一方の側には小高い土手が続いていた。道は上りきると水路とも呼べないひと筋の小さな流れのそばをくねくねとおりはじめ、やがて土手の間に小さなくぼ地が現れた。雑草のなかに野アザミが何本か咲いている。そのはずれの一本に、二、三十匹ものコガネムシの影が寄り集まってしきりにうごめいていた。蜜でも集めているのか、それとも未名の知らない別の理由からなのか、やせたひとつの花をともし灯のように頼ってコブ状に集(つど)っては離れて行く。飛ぶものはいない。何分もの間、未名はその懐かしい秘密の儀式をじっとのぞき込んでいた。
それから、また歩き出し、石ころだらけの荒れ地を越えて行くと急に視界が広がった。道はなくなり、草はらが開けている。未名はスカートを汚さないように乾いた地面を選んで腰を下ろし、向うの高台に幾つか並ぶ窓灯にしばらく目をやった。ためしに草むらに背中を倒して仰向けに寝てみる。満月に邪魔されて星はあまり見えない。と、頭のそばで、ふいに草が小さくさざめいた。
(ヘビかもしれない)
不安になって身を起し、もと来た道を一目散に逃げて帰った。
来る時に感じていたよりずっと早く家の近くまでは戻れたが、やはり行き場はない。あてのないまま、日ごろ見知った物置小屋の陰にひざを抱えて身を潜めてみる。直後に向いの道からやって来た車のまぶしいライトがまともに未名を捉えながらゆっくりと曲がって行った。見つかったかと思ったが、車は止らずに去って行く。だが、ここは場所が悪い。道を横切った未名は、何軒か先の他人の家の板塀の下の隙間に這い込んだ。立ち上った少し先に、閉じられた古い雨戸が静まりかえっている。これでいい。塀と雨戸にはさまれた狭い庭地の暗闇で、未名はふと、誰にも見られていない妖しい安らぎを感じて服を脱ぎだした。Tシャツを脱ぎ捨て、シャツを脱ぎ、靴を脱いだ。スカートをとり、パンツを脱ぎ、最後に靴下を脱いで裸になった。夜気がやさしく体を包み、はだしにさわる湿った地面の冷たさが、未名を生れたてのひとりにかえしてくれた。そのまま飛び発ちそうになる。なのに、一瞬後、自分がいけないことをしているのだと思い出し、怖くなって急いで服を着なおした。折りしも、雨戸の奥で物音がする。未名はあわてて塀から這い出した。
どこへ行こう?
家の見える場所まで来ていても、見つけてくれる者はなく、未名はそのまま路地から路地をさまよい続けるしかなかった。
心が折れてとうとう細い枝路の途中にしゃがみ込み、そして顔を上げた時、そこにデベンがいた。デベンが尾を振ってうれしそうにやって来る。その後に母の影があるとも知らず、未名はデベンを死ぬほど抱きしめた。
2 未名
… 未名は岸辺で川面を眺めている。すねやふくらはぎに野草たちが柔らかく触っている。足もとで砂利石が静かにくずれ、未名は傾いて水の中にいた。透き通った川底には陽光が明るく揺らめき、小石の一つ一つがくっきりと見分けられた。銀色の小さな魚が二匹、岩陰を過ぎって行く。どこかで叫び声が起り、ふいに体が後に持ち上げられて、未名は空中に戻された …
未名には父親の記憶がない。彼女が三つになる少し前、母と父は別れ、それ以来、未名は一度も父に会ったことがない。ただ時折、ひとつの風景が、父の気配を連れて未名の脳裏をかすめて行くことがある。どこまでが本当にあったことなのだろう。
だがあの時、彼女は川底の小石やカニたちをそのままずっと見続けていたかった。
あの当時、未名はすでに人一倍、感じやすい子供だった。普通の大人たちには見過ごされるような身の回りのちょっとした変化にも鋭く反応し、外界の自然や、人々の言葉や、自分の体の中に、生き生きとした喜びや、身も凍る恐怖を感じ取って、まわりの者たちをしばしば驚かせるのだった。
四歳のとき、未名は言った。
「わたしもうすぐ死ぬわ」
驚いた誰かが尋ねた。
「どうしてそう思うの」
「体が熱いの」
「体が熱いと死ぬって誰が言ったの」
「テレビの人」
「大丈夫よ、死なないわ」
「いつ死ぬの」
「死ぬ時になったら死ぬの」
「じゃあ、死なないね」
死と暗闇への怖れは、この世の美しさへの驚嘆や、人や動物の命を慕う気持ちと同じように、未名の内面生活の大きな比重を占めるものだった。
だが、成長するにつれて、未名はそうした自分の感情を次第に表に出さなくなって行った。それはまるで、鋭すぎる未名の神経自身が、幼い心に一瞬も休まることなくなだれ寄せ続ける外からの刺激や、容赦なく引き起こされる心理的な嵐に耐え切れず、自らにふたをしてしまったかのようだった。
六歳を過ぎる頃には、未名は母やごく限られた相手にしか口を開かなくなっていた。どうしても必要な場面では、他人にきかれたことにも答えはしたものの、ぽつんと一言きりだった。生き生きとした言葉は消え失せ、論文のように冷たく、片言のように短かいせりふだけが残された。
ただ、そんな中で、母の伯父である「おじちゃん」は、未名の数少ない話し相手のひとりだった。量子物理学者のこの伯父は、世間からは賢い変人だと見なされていたが、論争やもめごとを好まない物静かな人物で、母も子供時代から可愛がられて来て、未だに慕い続けていた。未名は伯父の語る素粒子や四つの力や時空の話が大好きで、幼ごころにも、この人は自分と同じ世界にいる人なのだと感じていた。そして、自分の方からも人間や死についての「そもさん」を問い、量子力学者の「せっぱ」を求めるのだった。
ある時、未名と母は伯父を見舞いに病院を 訪れていた。伯父は数日前から入院していたが、顔色は良く、昼間は一日中、見舞客と見分けのつかない普段着で庭や院内を散策しているらしかった。通路わきの談話席で母と伯父の昔語りが一通り終った時、それまで黙って座っていた未名が急につぶやいた。
「おじちゃん、死ぬの?」
呆気にとられた母は、娘がなぜ突然そんなことを言いだすのかわからず絶句した。目の前の伯父は元気そうだし、検査入院に毛の生えた程度の療養だとしか聞いていない。
「死ぬのかい?」
伯父は静かに未名を見つめた、
「なぜわかるんだね?」
「わからない」
未名は答える。
「そんな気がして怖いだけ」
母が何か言いかけたが、伯父はそっと押し止めて苦笑した。
「未名は鋭いから、当っているかもしれんね」
「やめてよ、伯父さん。この子は敏感すぎるのよ。病院のにおいや雰囲気に当てられているんだわ。ごめんなさい、赦してやって」
「いいさ、わたしだって永遠に生き続ける訳にはいかないんだし」
「お願い」
未名が言う、
「死なないで。会えなくなるもの」
「それは寂しいね」
「死んだら、本当に、もう絶対会えないんでしょ?」
「そう思うね」
「天国でも?」
「天国を見た人はいないから」
伯父はやさしくからかった、「未名には神様や仏様が見えるかい」
「宇宙が一周しても?」
「さぁて、どうだろう。何兆年も先に … それとも、どこか別の宇宙でふたりがもし出会ったとしても、それはもうわたしと未名じゃないだろう」
未名は寂しくて少し言葉を置いた。
「わたしのこと、好き?」
「うん、大好きだ」
「わたしもよ」未名は伯父に抱きついた、
「でも、おじちゃんが死んだら、私のことが大好きだった気持ちはどうすればいいの?」
「わたしが死ねば、気持ちもいなくなるだけさ。どんなに好きでもそれだけなんだ」
それから何時間か後、伯父は担当の医師から癌だと告げられた。伯父は死なずに、手術と入退院をくり返していたが、ここ何ヶ月かの間は寝たきりで、誰とも話せない状態が続いている。
その手術の知らせがはじめて届いた前の日に、デベンはやって来た。口数が減る一方の娘を案じた母が知人から譲り受けて来たものだった。トテトテとまだ足元もおぼつかないその子犬は、だが、母の願っていた以上の劇的な変化を未名にもたらした。未名はひと目見るなり子犬を胸に抱きとって語りかけた。
「遅かったわね。わたし、生れてからずっとあなたを待っていたの」
その日から、未名はかかりきりで子犬の世話をはじめた。三時間ごとにパピー用ペーストとミルクを与え、トイレのしつけをし、雨の日も欠かさずに散歩に行き、夜は同じ布団に寝て一日のできごとや昔の話をした。子犬も、すぐになついて未名にうなりかけてみせたり、挑みかかってきたりするようになった。眉間と背筋に白いラインの通った賢そうな顔つきの黒毛の雄の子で、口もととつま先としっぽの先にも白い部分があった。何かあると、まるく見張った輝く黒い瞳の上にちょこんと三角形に立つ二つの耳先が可愛かった。このいたずら者のボーダーコリーに未名は「デベン」という名を付けた。何かの合言葉で仲良しという意味らしい。
二人は見る間にお互いにとってかけがえのないパートナーになって行き、周囲の人々も笑顔の戻った美名を見て、「明るくなった」、「言葉が増えた」、と喜んでくれた。が、母だけは、すぐに何かおかしいと気づき、ひとりで不安を募らせはじめた。娘が心を開くのは結局、一匹の子犬に対してだけで、その笑顔や言葉は全て子犬に向けられたものでしかなかったからだ。まわりの者たちや母親に対しては相変らず心を閉ざし続け、それどころか二人だけの世界に閉じこもってしまった分、いっそう自分たちから遠ざかって行こうとしているように見えた。
3 出来事
暮美(くれみ)が見上げたとき、八才の娘は二階の部屋の前で床を見つめたまま表情がなかった。
十月の窓に踊る暖かな陽射しが、開け放しの子供部屋のドアのむこうから、ことさらさわやかにあたりに映えきらめく朝のことだった。
夕べ、いつもの野原で未名と遊んだ時と同じ顔つきで、いたずらな口もとにいつもの黒いシミをのせたまま、いつもの寝場所に、デベンはむくろになって硬ばっていた。ほんの少し薄目を開いて、いやに平たく伸びていた。
暮美が上って来ても未名は顔を上げず立ち尽くしている。声も出せず、涙もなく、デベンに触れようとすらせずに、突っ立ち続けている。暮美は娘の足元に横たわる愛犬に駆け寄った。
「デベン!」
暮美が叫んでも、未名は動かない。
「どうしたの !? デベン、どうしたの!」
取りすがり、全身をなでさするがすでに手だてはない。蒼ざめた顔をあげて母は未名を見た。
「どうしたの?」
未名はわずかにかぶりを振った。母といっしょに心のなかで「どうしたの」と叫ぶのが精いっぱいだった。
この世界でただひとりの友だちだったものの体が母の両腕にすくいとられる様子を見つめ、居間に運び下ろされるそのあとに黙ってしたがって行く。
「デベン、どうしたの」
なきがらを陽だまりのクッションに寝かせると、暮美はもう一度、痛ましく呼びかけた。
「きのうはあんなに元気だったでしょ」
… どうして …
呆然と、未名は思う。
… きのう、ボール投げをしたじゃないの。ボールを投げたら、はじめてなのにあとを追いかけて行って、でもボールは置いたまま戻って来て「もう一度」ってはしゃいだでしょ?わたしがボールを拾って、あげないよって頭の上で見せたら、ゴムまりみたいにジャンプしてあっという間に横取りされたわ。後足がわたしの顔より高くって、わたしまで跳び上ってみたくなってしまったの。あんなにうれしかったこと、生まれてはじめてよ。それからお母さんが呼びに来るまで練習して、帰りに、あしたはちゃんと拾って来ようって決めたわね。きょうも野原に行くんじゃなかったの …
「… 未名」
母は娘を呼んで胸に抱き寄せた。小さな体は硬く凍っていてほどけない。
「… けがもしていないし、血や食事も吐いていないわ」
この子にはデベンしかいなかった。デベンだけがこの子の孤独を救っていた。この子は今、何を感じているのだろう。この子の失くしたものの大きさはわたしには到底わからない。泣かせてやらなければ。涙で少しでも楽にしてやらなければ。
「なでてあげて」
暮美はうながした。
「デベンって呼んであげて」
「デベン」
娘はしゃがみこんだ。両方の瞳から悲しみがいきなりあふれ出た。幼い手が、顔と頭を、胸を、背を、尻尾を、幾度も幾度も行き来して命を取り戻そうとした。
けれども、なきがらは、もうデベンではない冷たさで何も答えず、抱きしめようとした未名の想いを無情にはねつけた。
「務めを終えたのね …」
暮美は未名のうなじに手を当てた。
「デベンはきのう、あなたと遊びたかった残りをぜんぶ遊びきってしまったのね。毎日あなたと遊んで、一生分、遊び終えて、いつもの通り晩ごはんを食べて、満足してしまったのね」
未名には言う言葉がなかった。ただ、涙が心の途中で凍りついたように押し潰されて涸れてしまった。
それから母に言われるままに二階に戻って服を着替え、歯をみがき、顔を洗った。
朝食は口にしなかったが、ランドセルを渡されると力なく背負い、母に見送られて黙って玄関の戸をあけ、迎えに来た通学班の列に加わった。それ以外に何ができただろう?デベンが死んだ今。
昼過ぎ、暮美の惧れていた通り、学校から電話があった。未名はうつむいてひと言も口をきかず、名前を呼ばれても気づかず、できるはずのかけ算もできず、給食にも手をつけていないという。心配する担任に、暮美は今朝の出来事を話し、デベンが美名にとってどれほど大切な存在であったかを言葉を尽くして説明しようとした。
「そうですか …」担任はつぶやいた。
「ですが、これを機に、一度どこか然るべき専門家に相談に行ってみられてはいかがでしょう?」
それは、これまでにも別の人々から何度か聞かされてきた進言だった。
「以前から未名さんの様子が気になっていたのです。賢いお子さんなのに口数が少なくて、感情を表に出すことができないような印象を受けるものですから」
暮美は手帳のアドレス欄を開いてみる。そこには去年調べたいくつかの相談先のリストが並んでいた。市役所の無料相談や、保健所や児童相談所のカウンセリング窓口、なかには自閉症の専門病院の名もある。暮美のなかには、娘への、ある、負い目に似た自責の念があった。
わたしが未名の父親と別れたことはどの程度彼女を傷つけたのだろう・・・未名は確かに生まれつき内気な子供だったが、本当に心を閉ざしはじめたのはあの頃からだったような気がする。たとえ未名自身は父親のことを憶えていなくても、幼い心のどこかに一生消えることのない無意識のトゲが刺さったのではなかろうか?
午後、暮美は毛布に包んだデベンを抱いて、徒歩で二十分ほど離れた動物病院を訪ねて行った。これまで年に一度、予防注射の際に計二度しか来たことがなかったが、動物好きの初老の医師は、デベンのなきがらに神妙に両手を合わせ、死因を知りたいという暮美の依頼を快く聞き入れてくれた。全身のレントゲンをとり、内視鏡をのぞき、血液や尿を調べたあと、彼はこう言った。
「病変も外傷もないですね。いわゆる突然死ということになりますか。もっと調べるには解剖するしかありませんが …」
診察台の上のデベンの体は、縮んであまりにみすぼらしかった。暮美は何某かの料金を支払い、謝絶した。
「おばさん」
病院から戻った暮美が動物霊園を調べていると、玄関が開いて隣の麻紀の声がした。出ると、未名は上りがまちに腰をおろしていた。
「ありがとう。送って来てくれたのね」
「おばさん、デベン死んだの?」
「えぇ、けさ死んでいたの」
「未名ちゃん、元気ないよ」
「そうね、心配してくれてありがとう」
「かわりの子犬、さがしたら?」
「えぇ、もう少ししてからね」
麻紀が帰って行くと、未名は母にうながされて靴を脱ぎ、下ろしたランドセルを階段に残して居間をのぞいた。
座り込んだまま、表情のない目をデベンの死骸に落す。
「今、ペット霊園を探していたところなの」
暮美は未名に寄り添った。
「あなたが帰って来るまでにお別れを済ませてしまった方が良いかどうか迷ったけれど、でも、デベンがもう一度、どうしてもあなたに会いたがっているような気がしてできなかったわ」
「デベン、燃やすの?」
「いや?」
「いや、かわいそう。庭に埋めて」
暮美も気持ちは同じだった。田舎家なので場所はある。二人は柿の木の根元に十分な深さの穴を掘り、デベンを葬った。亡骸を生前愛用していた毛布で被い、皿とフードを添え、土を盛り、二人で立派な庭石を運んで来て置いた。最後に線香を立てて、燃え尽きるまで身を寄せ合って見続けた。
夕食を残し、風呂場に入ってからも、未名は裸のまま窓を隙かして、柿の木の下の黒々とした墓石のシルエットだけを見つめていた。とうに冷めてしまった湯船には浸かることもせず、冷え切った体で出て来ると母に呼ばれた。
「未名」
暮美は、今夜だけ、特別に居間に広げた二人寝用の大布団に娘を招き入れた。
「久しぶりね …」
フカフカの毛布で自分と未名の体を包みながら、枕元に用意していた青く沈んだ扉の本を未名に示してみせる。
それは暮美がまだ少女だった昔、中学の入学祝にあの伯父から贈られた特別なものだった。暮美のなかで物語は伯父その人への思いと重なり合い、未名ができてからも、まだ言葉を覚えはじめる前から五つになる頃まで、ほとんど毎晩添い寝して、何の説明も飾らずに暮美が読み聞かせてきたものだった。
未名は横たえた冷たい体の中で、忘れかけていた遠い場所から自分に語りかけてくる母の声を聞いていた。
4 小さな左足
ヒエログリフはもうおなかが空っぽで、おまけにここがどこなのかさえてんで分らず、これでようやく私もさすらいの旅を終えられるのかしらと観念しはじめました。
そこは陽の落ちかけた野原のまんなかで、どこか遠くで夏祭りのお囃子らしい笛や太鼓の音がかすかに響いています。辺りの景色が急になつかしくぼんやりとかすんで来て、ヒエログリフは、
あぁ、これがわたしのラスト・シーンだったのね、― 悪くはないわ、でも何て遠い道のりだったことでしょう …
と、心の荷物を降しかけました。ところが、そのとたん、いきなり何かにいやと言うほど背中を踏んづけられて、「痛いっ!」と悲鳴を上げました。
見ると、小さな男の子と女の子がおそろいの浴衣着で立っており、男の子の下駄の歯先がヒエログリフを踏んでいます。
「痛いじゃないのっ! 」
下駄の歯かげから何とかもがき出ると、ヒエログリフはプンプン怒って二人をにらみあげました。
「おかげで死んじゃったわっ!」
男の子と女の子は、まじめな顔つきでまっすぐこちらをのぞいてきて答えます。
「生きてるよ」
二人に教えられ、ヒエログリフはしばらく考えてから、
「もっと悪いわ」
と、今度は弱々しくため息をつきました。
「あのね、」と、男の子が言います、「数学と論理学だけで、この世の悩みや悲しみをぜんぶ解決できるとは限らないんだよ」
「それは …」
不意を喰らって、ヒエログリフはしどろもどろになりました、「それは、そうでしょ …」
「でも、解決できるこの世の悩みや悲しみなら、みな数学と論理学だけで解決できるんだよ」男の子が続けます。
ヒエログリフには、今度はもう、どんな返事も浮んで来ませんでした。
そんなことにはおかまいなく、女の子がこう結びます。
「では、このことから、この世の悩みや悲しみは数学と論理学でしか解決できないと言えるでしょうか?」
呆気に取られているヒエログリフにはおかまいなく、ふたりはそれだけ言い終えるとさっさと身を起して、「行こ」と、立ち去りかけました。
「待って」、ヒエログリフはあわてて二人を呼び止めました、「わたし、おなかがペコペコでこれから飢え死にするところなの。でも、もしどこかの親切な子供が詩を唱えてくれれば助かるかもしれないわ」
男の子と女の子は立ち止って小首をかしげ、今度は、「名前も知らない相手に詩を唱えてあげたりしてもいいものかしら」とか、「それは、詩を唱えてあげなくても名前を知っている相手なら構わないという意味かしら」などと、相談し始めました。
それで、あわれな左足は「わたしの名前はヒエログリフィカ・フィロソフィカよ」と、とりあえず自己紹介しておかなければならなくなりました。
そして、また何か別の新しい議論が持ち上がらないうちに、「詩や歌を聞くと少しだけ力が出るの」と、いそいで付け足しました。
「それで元気になるの?」と、男の子。
「どんな詩でもいいの?」と、女の子。
ヒエログリフは「怪しげな詩なら」と疑い深げにふたりを見上げました。
「それならあるよ」と、女の子、
「『日暮れ鬼』のうただよ」と、男の子。
それからふたりは、ヒエログリフの見ている前でおもむろに両腕を八の字に拡げると、暮れかけた上空を仰いでゆっくりと旋りながら、こんなふうにぐるぐる唱えはじめたのでした。
見つけたぞってのぞいたら
茂みのさわぐ日暮れどき
両の目とじて上むいて
ぐるんと一回まわったら
そこは
やっぱりもとの場所
もとの野原にもとの子が
もとのひとりでのこってる
もとの名前と顔をして …
最後の呪文はないかしら
前と後のまんなかで
ときどき首をかしげるの
両うであげて風だいて
虫の呼び声あつめても
ここは
やっぱりよその場所
よその窓辺によその灯が
よその夕げを映してる
よその世界のいろをして …
最後の呪文はないかしら
前と後のまんなかで
ときどき首をかしげるの
すると、ふたりのうた声にさそわれるように、近くの草むらの其処(そこ)此処(ここ)から、ざわざわっ、カサコソ、とざわめきが起り、止んだかと思うと、また少し離れた別の場所へと移って行くのでした。よく見ると、小さな銀色のともし灯のような光が二つずつ、茂みの奥にちらちらのぞきます。
「何かいるの?」
思わず身をすくめてヒエログリフは訊きました。
「大丈夫だよ、野狐と山わらしだから」と、男の子。
「人喰い猿は寝てるから」と、女の子。
それから一緒に「元気でた?」と、二重唱でたずねました。
ヒエログリフは、小さな体全体でひとつ深呼吸を試してみて、それから、
「ありがとう、本当に怪しげなうただったわ」と、ここしばらくずっと忘れていた自分の笑顔を取り戻しました。
「よかったね、汚い泥んこの物の怪(もののけ)さん」と、男の子。
「さようなら、ひらひらでペタンコの妖精さん」と、女の子。
「違うんだけど!」ヒエログリフはまたひどく気を悪くして抗議しました。
「じゃあ何?」と、ふたり。
「可愛い女の子のすてきなサンダルの左の足跡よ」
「じゃあ飛べる?」と、男の子。
「飛べないわ。それになぜ『じゃあ』なの?」
「じゃあ尻尾ある?」と、女の子。
「ないわよ」
それを聞くと、ふたりは満足して「やっぱり」と、うなづき合いました。
「おーい、どこだーい」
向うから呼び声がします。二人の倍くらいの背たけの少年の姿が夕暮れのなかからこちらにやって来ました。
「やぁ、やっぱり道草だ。… あれ、君はだれ?」
少年は、ヒエログリフに気づくと好奇心一杯の表情でのぞき込んできました。何だかイルカのような目をしています。
「ヒエログリフィカ・フィロソフィカ、女の子のサンダルの左の足跡で、二十億年間、放浪の旅を続けているの」
「へぇ …、ぼくは努(つとむ)、この子たちのお目付け役なんだ」
普通に話ができる相手にようやく巡り会えたヒエログリフは、ほっと吐息をつきました。
「さっき命が切れかけて倒れていたら、こっちの子に踏んづけられたの」
「わざとじゃないよ」と、男の子。
「時効だよ」と、女の子。
「ふーん、そりゃ大変。けがはなかった?」
「えぇ、それに今、うたを聞かせてもらったから心はもう大丈夫。でも体は一歩も動けない。おなかが空っぽなの」
「じゃあ、いっしょに来ない?これからご飯なんだ。よかったらお風呂に入って泊っていけば?未名が喜ぶよ」
「じゃあ乗って」と、女の子。
「え?」
「肩ぐるま」と、男の子。
それから、体がフワッと浮いたかと思うと、大きな手のひらにやさしくすくいとられたヒエログリフは、もう努の肩のうえに乗せられているのでした。
「すてき、見渡す限り世界だわ …」
顔をあげるとそこには数え切れないほどの星たちが、湧き出すように宇宙の奥から続いています。
手をつないだ男の子と女の子がうたいながら先にたち、四人は凪(な)ぎきった茂みの間をのんびりと歩いて行きました。
夜の来るまえ
少しだけ
世界は元にもどるけど
空と野原のまんなかは
日暮れの鬼に気をつけて
(※作者註:第四章のみ、以下未完です)
5 事件
寝息をたてはじめた未名の首もとに毛布をかけなおし、羽根ぶとんを重ねると、暮美はしばらくその寝顔をのぞいていた。起きている時のどんな表情よりも、寝ている未名の顔は愛おしい。今、この世のあらゆるきまりごとから解き放たれて、この子は話の続きを無心に辿っているのだろう。
数日後、伯父が死んだと知らせがあった。
その晩は肌寒い雨になった。ふと目覚めた未名の耳に足音が聞こえていた。そんなはずはないと耳を澄ますが、足音は雨のなかを確実にゆっくりとやって来て、家の前でぴたりと立ち止まる。と、泡だらけの裂けた口から牙を剥き出し、目を血走らせた狂犬たちの蒼黒い姿が、暗がりから突然、自分に迫って来るのがわかった。それが現実ではないと自分に言い聞かせ、必死に瞳を見開いて、イメージを振り払おうと部屋の闇に目をこらせばこらすほど、狂犬たちはますます確かな形を結び、未名は息を吐くことさえできずに、身を強張らせた布団の上で朝まで怯え続けていたのだった。
未名はとうとう葬儀に出なかった。デベンを失った心に伯父をしのぶすき間はなく、結局、暮美だけが雨上がりのまっさらな青空に抱かれた伯父の棺(ひつぎ)をわびしく見送った。それがこの秋、最後の晴天だった。
翌日、空が気配を変えはじめた。朝方から、形のない鉛色の暗雲が田畑や家々の背後へ次第に忍び入り、昼まえにはその年はじめての木枯らしになった。沿道や庭の梢に残っていた枯葉や黄葉たちが、時折ざわめきをたてながら足早に旅立ちはじめ、地面はこの数ヶ月のあいだ蓄え続けてきたぬくもりを一気に手離して行くようだった。大気からも芳醇で爽やかな甘い香りが消えて行った。
母は隣家で麻紀の母親と話していた。未名はひとり残されて、二階から、薄気味悪く変って行く下界の様子を見ていたが、窓の向うに黒いひとつの人影を認めて息を止めた。人影は無気味に光る空を背負って深々と帽子をかぶり込み、まとったコートの裾を暗く風になびかせて道端にたたずんでいた。どこかで遠雷が鳴っている。死神だ、と未名は思った。
「雷だわ」暮美は憂鬱につぶやいた。
「昔から苦手なの」
「わたしもよ」
入れたてのダージリンをひと口すすって相手は天井に目をやった。
「なのに、麻紀ときたら雷が鳴るとはしゃぎまくるんだわ。そこら中、跳び回って家からとび出しかねない勢いよ。ほら、上でドンドンやってるでしょう?」
相手はもうひと口、茶をすすると少し声を落してたずねた。
「それで未名ちゃんにはいつ会わせるの?」
「きょう、これからよ」
「まあ」ある程度は予想していたが、下ろしたカップが皿に触れて音をたてる。
「早過ぎない?デベンや伯父さんのことがあった直後だし、もう少し落ち着いてからにすれば?」
「そうしたくてもできないの。仕事の都合できょうを逃すと半年は先になるから」
「大丈夫かしら?」
陽子の指がカップの持手を細かく弄っている。
「それに、未名ちゃんより、あなた自身は覚悟を決めたの」
「えぇ、今度は未名とフィンランドへ行くわ」
暮美は別れた夫との再婚を望んでいた。未名にはやはり父親が必要だと感じている。量次(りょうじ)の側も前向きだった。もともと憎み合って別れた二人ではない。パイロットだった量次が日本の航空会社を見限って、勝手に北欧の会社に移籍し、何ヶ月ものあいだ帰国できない状態が続くことになるため、生活の見通しが立たなくなったのだ。量次の方では最初から暮美は当然ついて来てくれるものとひとり決めしていた。新婚旅行で北欧の国々を巡ったとき、二人ともその美しい自然と町々のとりこになり、とりわけ暮美は、森と湖とシベリウスとムーミンの国に魂を抜かれて「ここで暮してみたい」とつぶやいていたのではなかったか。確かに暮美ひとりなら喜んでついても行っただろう。だが彼女は、少なくとも物心がつくまでは未名を自分の国で育てたかった。それに、そんなに重大な問題を少しも相談しようとしなかった量次にひどく腹を立てた。サプライズにもほどがある。だが、もういいだろう。今なら別の生活をしても良い。厳しく美しい自然のなかでの新しい暮しは、未名にも良い癒しになるにちがいない。
表で音がした。
「旦那さまね」
陽子が目配せし、暮美は顔を上げる。
「お邪魔します」
玄関に、黒尽くめの量次の姿が現れた。座ったまま陽子が招き入れると、帽子をとり、黒いコートを脱いでハンガーに掛け、こちらに深く一礼した。
「お久しぶりです」
陽子はその物言いが好きではなかった。量次を含めてこの場にいる三人は幼稚園に入る前からの幼馴染みなのに、暮美と結婚してからの量次の態度や言葉遣いは急に余所余所しくなってしまった。当たり前と言えば、そんなものなのかもしれないが、昔どおりの屈託のない本音をもう聞けないのかと思うと、男女の友情のはかなさを思い知らされる。
「麻紀ちゃんは?」
いくらか素直な調子で量次が尋ねる。
「雷踊りの最中よ。それより、ご対面なんでしょう?」
「はい」
量次はまた固く構える。無口で口べたな所だけは昔と変らない。
「全く人騒がせな人たちよ」
陽子はため息をついて見せた。
「籍はもう戻したの?」
「いや、未名の反応を見て考えます」
「これだけは覚えておいて」
陽子が厳しくつぶやく。
「二度目はないわよ。それに」
彼女の顔を再びかすかな影が走った。
「未名ちゃんが心配だわ …」
「ただいま」
暮美は玄関から娘を呼んだ。
「未名ちゃん、ちょっと来て。珍しいお客さんが来ているの」
足音が階段を降りて来て途中で立ち止まる。
母の隣に死神が立っている。
背を向けて、未名は階段をかけ戻って行った。ふたりは顔を見合わせる。
「驚かせてしまったようね。呼んでくるからあがってここで待っていて」
母が後(あと)を追った。
「未名ちゃん」
ノックして取っ手を引くがロックされている。
「未名」
もう一度ノックするが返事はない。様子をうかがう母の耳がかすかに未名の声をとらえた。
「デベン、デベン …」
何度も何度も、繰り返し繰り返し、すがるように呼んでいる。
「未名」
母はドアの奥に呼びかける。
「出て来て。何も怖くないわ」
再びノックしようとしたとき、突然ドアが開いて、娘の体が暮美の脇をすり抜けて行った。片手に何か光る物を握っている。後姿は、そのまま階下に立つ死神めがけて踊りかかると、右手のハサミを思い切り相手に突き出した。量次は危うく身をかわして凶器を取り上げたが、はずみでふたりとも激しく床にぶつかった。
「未名!あなた!」
暮美の悲鳴が廊下に響いて消えた。
「あすの便で帰るから …」
吹きさらしの道端で、量次は最後に振り向いた。
「罰があたったんだ。身勝手な親たちに」
「でも、機会はまだあるわ」
か細く暮美は答えたが、「どうかな」と、彼はあいまいにつぶやいた。
未名の振舞いは量次以上に暮美を打ちのめしていた。
暮美には娘がもうわからなかった。
愛しい娘。私の未名。あなたは心を閉ざし、それでも私はあなたが好きだった。でも、どこへ行こうというの?私には見えない何かを見ていた真っ黒な瞳、小さな声とひとりぼっちの笑顔を捨てて私から行ってしまうの?あの添い寝の日々には何の意味もなかったというの?
「暮美」
量次が見つめている。
「あの子は普通じゃないよ。医者に診せた方が良い」
それだけ言い残すと彼は向き直り、砂けむりの田舎道を暮美から静かに離れて行った。
彼と会うことはもうないだろう … 視界から消えるまで彼女は後姿を見送った。
二週間、学校を休ませて、暮美は未名と幾つもの病院を訪ね歩いた。どの病院でも、未名は簡単な質問には素直に答えたが、「この絵は何に見える?」とか「デベンとはどんな遊びをしたの?」といった類の問いかけには口をつぐんでしまった。セラピストたちの診断や治療方針はどれも暮美を納得させることができず、結局、頼りは最初に処方された向精神薬や鎮静剤だけという有様だった。
薬の服用がはじまると、未名は次第にまわりの世界から興味を失くして行きはじめた。テレビを見なくなり、ベッドにこもる時間が多くなり、時には母のいることさえ気づかずに過すこともあった。案じた暮美は医者と相談して、少しでも人との接触の機会を増やそうと、予定より二日早く、娘を登校させることにした。
その初日、下校班が家の前で止っても未名は帰って来なかった。ランドセルを背負った麻紀と班長の少年が玄関先でけたたましく事件を告げた。
「おばちゃん、未名ちゃんがいなくなったの」
「布蔵寺のところで急にかどを曲って土手の方へ走って行きました」
暮美は麻紀に、陽子にも伝えてくれるように頼み、学校に連絡した。警察にも電話して、そのあたりにため池や川や用水路が多いことを念押しした。
外は晴れていたが、空気は冷たく入れかわっている。暮美は土手のまわりを、陽子は通学路周辺を、麻紀は家の近所を手分けして捜して行った。
二十分ほど経った頃、麻紀が、五十メートばかり先を行く未名の姿を見つけた。家から大して離れてはいないが、通学路からはずれた裏道で、両側を竹林におおわれ、坂になったむき出しの斜面には岩がゴロゴロと転がっている。子供にはあまりなじみのない場所だったが、麻紀は、それが未名とデベンの散歩のルートだったことを知っていた。
未名は見えないデベンを連れてゆっくりと小道を歩んでいた。どこに置いてきたのか、その背にランドセルはない。時おり立ち止まって足もとを振り向いては、クスクス笑いながらひとりで何かを話しかけている。麻紀は子供心にも、あってはならない光景を覗いてしまった不安に襲われ、一瞬、たじろいだ。だが、すぐに持ち前の勇敢さを発揮して、大声で「未名ちゃん」と叫んで駆け寄った。
「未名ちゃん何しているの!みんな心配してるのに!」
未名は顔を上げたがその目は、麻紀など見てはいなかった。遠い目つきで、「ボールがないわ」とつぶやいた。
「未名ちゃん、しっかりして!」
麻紀は怒って訴えた。
「頭が変になったの !? デベンなんていないでしょ。死んでしまったのよ」
未名の目が麻紀を見た。独りぼっちに澄んでいた。
「嘘つき」
麻紀はいきなり突き倒された。未名が傍らの大きな岩を持ち上げた。椰子の実ほどもある塊を両腕で抱え上げ、顔の高さから麻紀の頭めがけて投げ落した。麻紀は悲鳴をあげ、とっさに顔を腕で庇った。岩が肘を直撃し、嫌な音を立てた。麻紀は呻いて身をよじる。脚が二、三度はね上る。相手がまだ動いているので、未名はもう一度岩を抱き上げた。だが、なぜか力が抜けて途中でとり落し、しゃがみこんでデベンが帰って来るのをその場で待った。
未名の捜索に当っていた消防団の若者が最初にふたりを見つけた。彼が見た時、正気づいた未名は、脂汗にまみれて呻く麻紀の体をしきりにさすっていた。救急車が来て麻紀を運んだ。
幸い、麻紀の傷は右肘だけで済んだが、骨は粉々で、手術とリハビリが必要だった。
麻紀の話から事の成り行きが判明すると、暮美は麻紀の体の上に泣き伏した。それから土下座して陽子に罪を詫びた。号泣して赦しを請った。
「私を恨んで。私が悪いの」
陽子も衝撃は隠せなかった。
むきだしの罵声や怒号を浴びせかけることこそなかったが、鋭い非難の視線が暮美の胸を突き刺した。
「なぜ放っておくの?ひとりで学校にやるなんて無茶でしょ。あの子は以前の未名ちゃんじゃないわ。今すぐ無理にでも入院させて。わかってるの?あの子、人を殺すところだったのよ」
治療費以外の金銭はいらない。訴訟もしない。ただ、未名を入院させることだけを彼女は要求した。だが、暮美にはとてもできなかった。ただでさえデベンを失った娘をひとりぼっちにするなど耐えられないことだった。それは母としてわが子を見捨てるに等しい行為に思われた。暮美は陽子に懇願した。学校を休学させること、常に付き添い、ひとりでは決して外に出さぬこと、信頼できる医師のもとで治療につとめることを誓って赦しを請おうとした。陽子は入院させるのが未名のためだとなおも諭し続けたが、最後には折れるしかなかった。
6 野原で
新しい季節がはじまっていた。四時には日が傾きはじめ、嫌われ者のヒヨドリも山の寝ぐらに帰る。
未名は気分が良かった。朝食のサンドイッチとジュースも、昼のカレーライスも残さずに食べ、デベンの好きだった「可愛いアウグスチン」のメロディーが時々口の端にこぼれ出た。準備は整った。外に出ても寒くないようにスカートからズボンにはきかえ、一張羅の白いセーターに星座がらのチョッキをはおり、ポケットにはボールを入れて待っている。ズック靴も履き終えた。母の監視は厳しかったが、もうすぐ夕刊を取りに出るだろう。未名が居間や食堂にいる時は用心していったん新聞を置きに戻って来るが、二階の子供部屋に居れば、ついでに横手に回って鉢植えのクリスマスローズに水やりするはずだ。わずかな隙だが、未名が部屋を抜け出し、忍び足で階段を駆け下りて裏戸から出て行くには十分な時間がある。四時十分。ほら、玄関で音がした。
未名は素早く立ち上がり、気配を計ると階段を駆け抜けて、計画通り、まんまと外へ脱け出した。
そのまましばらく駆けて行く。成功だ。なんて気持ちの良い風だろう。その後(あと)をひそかにつけてくる母がいることなど知る由もない。
暮美には、未名の企みがわかっていた。いつになく機嫌の良い昨晩からの様子に不審を抱き、玄関からスニーカーが消えているのを見て、逃げ出そうとしていることを見抜いていた。そのままやめさせることもできたが、暮美は娘の行動を観察したかった。一人になったとき、娘の顔をした未名がどうするのかを我が目で見届けておきたかったのだ。
立ち止まった未名がポケットからボールを取り出す。一度しか使ったことのない緑色のデベンのボールだった。
「行こ!」
未名はボールを握りしめ、日暮れの田舎道をスキップして行った。後になり先になり、振り向いては追いかけて、嬉々とした笑顔ではしゃぎながら、見えないデベンと野原を目指した。
休耕地跡の広く開けた草むらがふたりの場所だった。壊れた納屋の物かげに身を隠し、暮美は娘を見まもった。
踏まれて禿げあがった畦道から未名は野原にとび込んだ。野原のまんなかには短い下草が一面に枯れ残り、もっと奥のすすきや麒麟草の茂みの間から、消え遅れたコオロギたちの羽音が心細く漏れている。
「デベン」
無人の草はらに弾んだ声が上る。
「行くよ」
未名はボールを少し先の地面へ投げた。しばらく待って「だめねぇ」と顔をしかめて見せる。
「追いかけるだけじゃダメよ。とって来なくちゃ」
それから自分で拾ってきて、もう一度、ボールを示して見せた。
「いい?行くわよ。それっ」
今度は少し遠くへ投げた。ボールは山がたを描き、空中で一瞬何かの光に浮き上がってまた草かげの向こうに落ちて行く。
「あぁ、まただ …」
未名は途中まで歩いて行き、しゃがんでデベンを出迎えると、両手の指先で相手の首をかきなでる仕草をした。
「いいのよ」
未名はやさしく立ち上がった。
「そのかわり …」
見つけたボールを拾い上げると急に悪戯な笑顔に変った。
「取って来ないと晩ご飯は抜きよ、それっ!」
力いっぱい手から放たれたボールはずっと向うの茂みのどこかへ吸い込まれて行った。
「ほら、がんばって」
それきり、いくら待ってもデベンは帰って来なかった。
「デベン?」
未名があたりに呼びかける。
「デベン、どこ?」
ボールの飛んで行った方向を探りながら、未名は懸命に不安を抑えた。
「ボールはもういいわ」
茂みの奥をのぞきこみ、顔や手に無数の切り傷ができるのもかまわずに、すすきをかきわけ、麒麟草を押し払う。
「デベン!」
姿を見つけられず、今度はそっぽの方角や、まさかの場所までのぞきこむ。幾度も幾度も同じ所を確かめる。
だが野原中さがしまわってもデベンはいなかった。
未名が突然泣き出した。
野原のまんなかに独りぼっちでへたり込み、唸るように嗚咽を吐き出した。
「未名」
暮美はたまらず納屋の陰から出て行こうとした。
その時、未名が泣きやんでふと後をふり向いた。
見ると、小さな男の子と女の子がおそろいの浴衣着で立っています。
「あ、ここにいた」と、男の子。
「見ぃつけた」と、女の子。
けれど未名は涙がつかえたまま、まだ返事ができません。
「しっぽのない子がひとりと」と、男の子。
「とさかのない子がひとり」と、女の子。
それからいっしょに、
「ぜんぶでひとり見ぃつけた」
ふたりがちっともなぐさめてくれようとしないので、未名の涙はだんだん乾いていきました。
「迎えに来たの?」
「帰ろ」と、男の子。
「帰ろ」と、女の子。
ですが、未名はゆっくりかぶりをふりました。
「ダメよ、デベンをさがさなくちゃ」
「それならいるよ」女の子が言います。
「あそこの茂みのうしろだよ」と男の子。
見ると、うす闇をまといはじめた野原のいちばん端っこに、背の高い草むらがぽつんとひとつ残っていました。未名は立ち上ってさがしに行きます。
「未名」
暮美がたまらず物かげから出て行こうとしたとき、立ち上がった未名が誰もいない野原を横切って、畦のはずれに立つひときわ背の高い草むらの方へ歩んで行った。
「デベン!」
茂みに屈み込んだ未名が突然叫んだ。
「悪い子、何て悪い子!」
突き上げる歓びに声がつまる。
「わざと隠れていたのね」
未名は両腕をいっぱいに広げて草かげの何かに微笑んだ。
「さあ、おいで」
だが、出てきたものを見た母親は、恐怖の金切り声を上げた。
(終)
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