「幸せ」

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 小学生のとき、牛乳の入ったコップを机の上から落としたことがあった。確か、肘があたったんだったと思う。  もちろん床には白い水たまりができ、プラスチック製のコップはその横を転がった。俺は何をするでもなく、ただその様子をぼうっと眺めていた。 「ちょっと! 早く拭いて!」  俺の向かいに座っていた母さんはそう言い、俺に布巾を渡す。俺はその言葉にハッとし、すぐに床を拭いた───  ───その後のことはよく覚えてない。母さんに謝ったのかもしれないし、弘樹(ひろき)に「兄ちゃんだせぇ」と言われたのかもしれない。  とにかく、現在俺の眼前に広がる光景はそのときのことを思い出さずにはいられないものだった。程度は違うが「目の前で起きたことに対する理解が追いつかなかった」ことが共通している。否「俺を現実に引き戻す人」はいないため、完全に共通しているとは言えないのだが。  ───俺の家も家族も灰になっていた。  慌てて部活の合宿から帰ってきた午前9時のことだった。俺は牛乳のときのようにその様子をぼうっと眺める。俺の頬を冷たい風が撫でた。  「……芹川孝幸(せりがわたかゆき)くんだね?少し話を聞きたい」  刑事さんが俺に近づき話しかけてきた。それはあまりにもリアリティが無くてやはり夢でも見ているような気分だった。この人に俺を現実に引き戻すことなど到底出来ないだろう。  「……はい。」  俺は目も合わせず返事をし、刑事さんの後に続いた。
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