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「はあ…」
浮かない顔をしているのはセインだった。先程まで歴史的勝利を祝う祝勝杯に参加していたのだが、彼の顔色はあまりいいものとはいえない。ふらふらと足取り悪く中庭に出てきては、すっかり脱力したかのように噴水の縁に腰掛ける。元々、セイン・アストライトという男はあまりこういった騒ぎはあまり得意ではないのだが、とはいえ騎士団長である彼が参加しないわけにもいかない。そのためほぼ強制的に参加していたわけなのだが…。耐えきれず、こうして途中で抜け出してきたわけなのである。
「ううん…」
あまり得意ではない酒を飲まされたせいで、なんだか頭が痛い。瞳を閉じて痛む頭を押さえていると、不意にピタリと、額に手が当てられた。ひんやりとした感触。それが誰の手であるのか、セインには目を開けずとも分かった。
「あらあら、天下の騎士団団長様がなんて無様な格好なのかしら。お酒が苦手だというのなら、そもそも最初から参加しなければいいのに。とても麗しの騎士様とは思えないわね」
鈴の音のような声。でもどこか魔性を感じさせる、そうだ、あの声。しかし今は容赦ない言葉を浴びせられ、セインは苦笑いをして瞳を開けて顔をあげる。
「…まったくもって、俺もそう思うよ、リグレア」
「分かっているのになぜ?ほんとうに馬鹿ね」
リグレアと呼ばれた女は額から手を離すと、赤色の瞳を細めて小さく鼻を鳴らし、セインの隣に腰掛けた。漆黒の艶めいた髪が風になびく。まるで雪のように白くきめ細やかな美しい肌に、リンゴのように赤い唇。「可憐」という言葉を具現化したかのごとく、驚くほどに美しい容姿をしたその女性は不機嫌そうに唇をとがらせている。
「相変わらず手厳しい」
「当たり前よ。昔から変わらないんだもの。体は大人になっても中身はちっとも変っていないわ。あどけない少年セイン・アストライトのままよ」
「おいおい、この年で少年はないだろう」
「少年よ。いつまでたっても。ちっとも目が離せないじゃない。先日の戦いのこともそう、忘れたとは言わせないわ」
「あぁ…まぁ、それを言われると…こっちもなんとも言えないか」
宮廷魔導師であるリグレア。そして若き騎士団長のセイン。
二人は幼馴染であり、お互いに軽口をたたき合える仲であった。
リグレアは千年に一度と呼ばれるほどの天才で、幼少期からすでに周囲を寄せ付けないほどの魔力とそれを操るだけの実力を兼ね備えていた。おまけにこの美貌だ。彼女に憧れる者も多いが性格が少々気難しいため、いい意味でも悪い意味でも他を寄せ付けないのである。一方のセインは魔力ほど皆無に等しいが優れた剣技を持ち、周囲を気遣う優しさを持った青年である。彼の父親もまた、騎士団に入団していた。名の知れた剣豪でもあったらしいが、20年前に起こった戦乱の際、命を落としていた。だが彼は父親のことを誇りに思っており、幼少よりその姿に憧れて剣を極め、いまやその実力で騎士団を束ねる団長にまで上り詰めた実力者なのである。
「とはいえ、いつだってわたしの判断で加勢しているだけだから、こちらも強くは言えないけれど。わたしだって貴方の実力がどれほど素晴らしいものであるかは分かっているもの。今回だって、わたしが手を下さずとも貴方の実力があれば敵の首をはねることも出来ていたと思ってるわ」
「え…」
「何かしら、その顔は」
セインが豆鉄砲を食らったような顔をして黙ってしまったのを不審に思ったリグレアは、眉をひそめた。
「ああ…いや…。君に褒められることなんてあまりなかったからつい」
「……失礼な人。わたしはこれでも、いつだって貴方の実力は認めているわ」
「はは、それは嬉しい。世界が認めた大魔女リグレアに認めて貰えるとは、光栄だな」
不意に屈託のない笑顔を向けられて、リグレアのほうが面を食らった気分だ。バツが悪そうに視線を逸らして顔をそむけた。小さな声で「貴方はいつもそうやって無自覚に、」と呟く彼女の顔は少しばかり赤く染まっている。そんなこと、当のセインは知る由もない。顔をそむけたままのリグレアを不思議そうに覗き込もうとしている。
「ねぇ、セイン、わたし」
「あら?セイン、こんなところにいらしていたのですね」
リグレアが何事か呟こうとした時、ふと声がかけられセインはハッと顔をあげた。緩くウェーブのかかった美しい金色の髪を揺らし、嬉しそうに顔を綻ばせてこちらに小走りに向かってくるその女性を見るや否や、セインは弾かれたように立ちあがった。
「姫様!なぜこちらに…」
「パーティー会場にセインがいらっしゃらなかったので…もしかしてこちらに来ているのではないかと思って、わたくしも抜け出してきてしまいました。ふふふ、やっぱりここに来ていたのですね。酔いを覚ますためにと、以前もこちらにいらっしゃいましたから」
「お恥ずかしいところを御見せしてしまい申し訳ありません。すぐに戻ります」
「いいえ、お気になさらないで。無理をしてあの場にいる必要はありません。それよりも少し休んだほうがいいですわ。顔色がやはり良くないようですから」
満開の花のようなふわりとした優しい笑みを向けられ、思わずセインの表情も緩む。一方のリグレアはというと、その様子を黙って眺めていた。膝の上に載せた両手に、力がこもる。黒い何かが、喉の奥につかえたような感覚。いたたまれなくなって、リグレアは立ちあがった。
「あ…!リグレアさん!リグレアさんもいらっしゃっていたのですね!セインからお話はお聞きしておりました、この度の戦もリグレアさんのおかげで勝利出来たとか…。本当に、本当にありがとうございます。なんとお礼を申し上げたらいいか…」
「別にお礼なんていらないわ。貴女のためにやったことじゃないもの」
「それでも、セインたちは皆無事に帰還してくれました。リグレアさんのおかげです。心から感謝していますわ」
深々と頭を下げる姫を一瞥して、すぐにその場を立ち去った。背後から何やら楽しげに話し始めた二人の会話が耳に入る。二人の仲がいいことはリグレアとて知っている。姫がとても純粋な人だということも。優しい人だということも。
それから―…セインが彼女を密かに想っているということも。彼女もまた、セインのことを好いているということでさえも。自然と唇に力が入る。
力みすぎて唇が切れたのかもしれない。
口の中が少しだけ血の味がした気がした。
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